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宿災備忘録 四季 対岸の君と逡巡の季節 秋・弐4

 秋の夕空。深く滲む赤。眩しさに目を細める。しかし太陽が山に隠れるその時まで、目を離さずにいたい。そう思わせる力は、一体どこからくるのだろう。

(やはり大きさだろうか……いや、力強さか……)

 深遠が知る【自然】の中で、太陽は最も大きな存在。そこから力を分けてもらおうなど身の程知らずも良いところだが、己を鼓舞し、自らの背を自らで押すために、偉大な存在の力を感じておきたかった。

 次に維知香に会った時、思いを伝えよう。そう決心すると妙に心が穏やかになった。いつまでも迷っていても仕方がない。どんなに熟考しようと、甘い言葉など紡げるわけもないのだ。率直に、ただまっすぐに。維知香への思いを認めたことが、己に対する肯定にもなったのだろう。深遠は、既に自分の心が、維知香を中心として動き始めたように思えた。まるで維知香が太陽であるかのように。

(落ち着け……今がその時でもないだろうに)

 平常心。任に向かう時以外、それを強く意識しなかったのに。こんなにも己を制御できなくなるものか、と深遠は微かな恐怖すら覚えた。しかしもう、後戻りはしない。

 太陽が山に隠れると、夜は遠慮なしに浸潤する。深遠は縁側の雨戸を閉じ始めた。がたりと音を立てた戸板。横に滑らせる音に、こんばんは、という音が重なる。

「こんばんは」

 深遠は即座に来訪者を特定した。深みのある、柔らかな響き。菊野のものだ。

 玄関へと足を速めた深遠。菊野は胸元に包みを抱え、笑みをたずさえて表情で佇んでいた。

「突然、ごめんなさいね……少し、お時間よろしいかしら?」
「勿論です。お上がり下さい」
「では、お邪魔しますね」

 ゆったりとした動きで履物を脱いだ菊野。上がり框に置いた腰を持ち上げるのが、少し困難な様子に見えた。深遠はそっと、手を差し伸べる。菊野は笑みをたずさえたまま、深遠の心配りを受け入れた。

 庭に面した座敷へ。座布団を、と促すも、菊野は縁側に進み、庭に足を下ろして座った。

「家の中も、お庭も、とても綺麗にしてらっしゃるのね」
「皆様の温情によるものです。留守をお守り下さり、感謝しております」
「とんでもないわ。どう手を加えても、暮らす人間がだらしなければ、こうは保てないものですよ」

 穏やかに、ふわりと微笑んで、菊野は庭を眺める。そして静かに、視線を空に移した。

「確かに鷹丸家は、恵まれた環境にあると思います。だけど戦中戦後、貧しい時期もありました。貴方が持ち帰ってくれた骨董品のおかげで鷹丸家は潰れずに済み、町の人達の生活を、僅かばかりでも助けることができたんです。主従関係など、とうの昔に失われていると、主人も申しておりましたでしょう? 本当に、その通りです。どちらが上と言うことはありません。持ちつ持たれつ、世の中は、そういうものです。家族や、夫婦もね」

 その言葉を受けてなお、深遠は畏まった様子を崩さない。それを微笑ましく思ったのか、菊野はそよ風のように笑う。

「穏やかですね……この家も、この町も、悠久を思わせます。まるで時の流れが世間とは違うようで……結界に守られているからでしょうか」

 問いであるのか、独り言であるのか、深遠には判断がつかなかった。菊野は答えを待っているようには見えず、しかし言葉をかけずにはおられず、深遠は菊野の斜め後ろに座し、音を紡いだ。

「他の町よりも、時代の移ろいが滑らかなせいかもしれません。町の中心部は確かに文明の恩恵に授かっておりますが、それでもまだ、人の介入を許さぬ場所が多いためかと」
「移ろいが滑らか……具体的なようで、とても抽象的……だけど素敵だわ。はっきりとこうであると理由を示されるよりも、ずっと良い……深く答えを求めなくなったのは、年のせいでしょうか。人に対しても、曖昧な感情で接したほうが楽だわ、なんて思ってしまいますのよ」
「他者とは、いえ、自らの心でさえ曖昧なものであると、若輩者ながら感じております」
「そうね……本当に、そうだわ」

 菊野は深遠と視線を交え、小さな頷きを見せる。

「深遠さん。嫌でなければ、どうかこちらに……」


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