見出し画像

宿災備忘録-発:第4章5話

門の外。美影は玉砂利を踏みしめて立ち、木戸が開く瞬間を待っていた。久遠がしたように、開け放とうとも試みた。しかし災厄に思いが通じないのか、美影の体に変化は訪れない。

――まだ?
  まだなの?

気持ちを抑え切れない。木戸に体ごとぶつけてみる。しかし体に衝撃と痛みが伝わっただけで、木戸は微塵の隙も見せはしなかった。焦りに紛れた怒り。苛立ち。それを体現するように、両手は自然と拳に。

非難する相手が現れるのを待ち構える。木戸が軋む時を待ち侘びる。そして待ち人は、静かに現れた。

黒髪を風になびかせ、久遠は門の上から飛び降り、美影の目の前に立った。開くと思っていた木戸は音をたてず、久遠は既に、目の前にいる。予想外の登場に、美影は怒りを放つタイミングを失った。

「無事に着地できたか?」

久遠の第一声。他人を思いやる言葉が、美影の苛立ちを爆発させる。

「おかげさまで! 久遠の災厄は優秀だよ、本当に。ゆっくりここに降ろしてくれた。でも……私は巫女と話したかった……巫女に吹き飛ばされた時、巫女の災厄が私に伝えたんだよ……あの人の孤独や悲しみ、葛藤とか、色んな感情を」
「話を聞いて、心を癒してやりたかった、か?」
「そんなんじゃない! そんな大層なことはできないけど……きっとあの人は帰りたかった。湖野に帰りたかったんだよ。だから代わりの宿災が必要だった。そのために私を……そうなんじゃないの?!」

美影の両手は、いつの間にか久遠の胸元を掴んでいた。白いTシャツを握り、言葉の勢いに任せて揺さ振る。しかし揺さ振りに動じない視線が、無言で美影の手を制する。美影は両手から力を抜き、久遠との間に距離を置いた。

「これを……」

美影に差し出されたのは、湿ったままのスニーカー。

「履いたほうが歩きやすい」

久遠はスニーカーを、美影の足元に。

「靴下まで取りに行く余裕はなかった。すまん」

丁寧に揃えて置いて、久遠は沈黙。美影はしばらく黙った後、ありがとう、と小さく言って、スニーカーに素足を捻じ込んだ。

濡れて硬くなった紐を結び直す美影。その頭に、久遠の音が降ってきた。

「母親に、会いたかったか?」

美影は顔を上げた。久遠と目が合ったのは、ほんの一瞬。すぐに久遠は美影の横をすり抜け、玉砂利の道を戻り始める。

「行くぞ、時間がない」

待って、と言う間もなく、久遠は先へ。美影はあとを追い、すぐに隣に。

「巫女は、何か言ってた? どうして私を呼んだのか、聞いていないの?」
「あの石は、元々は巫女の物で、ソウヤに渡した、と。それをソウヤがお前に……石には巫女の気が強く込められていたのかもしれない。だから遠く離れても、その念が届いたんだろう。ひとりは寂しい。誰か、側にいてくれと」
「それだけ? それが真実?」

美影の問いに答えず、久遠は歩き続ける。その視線はひたすら前を見続け、美影に移る気配はない。

美影の右手。胸元に残った、久遠の気宿石を握る。この石を通じて、久遠の心情が読み取れるかもしれない。しかし石は、何も語らない。

玉砂利の道が終わると、久遠はその足を止めた。そして、

「こっちだそうだ」

こっち、とは。美影に行き先を告げず、久遠は進む。ただ草地の広がる場所。そこに立つ木。太い幹の下が、僅かに隆起している。木の周辺は草が綺麗に刈られ、土の盛り上がりの横には華奢な緑が群生し、桔梗が一輪、花をつけていた。

「季節になれば、もっとたくさん咲くそうだ」
「え?」
「山神の庭で死んだ者は、皆ここに眠っている」

美影は一瞬で眼差し、じっと、咲いた桔梗の周囲を見渡した。

「ここが、お墓……」

墓標も、線香の煙もない場所に、美影は膝をついた。

花弁を広げた桔梗の周囲には、いくつもの薄紫のふくらみ。明日にでも花開きそうな蕾たち。

「ここに、お母さんが?」
「ああ……ソウヤと巫女が、弔ったそうだ」

母と信じた人に、美影は手を合わせる。その隣に、久遠も膝をついた。目を閉じ、静かに、手を合わせる。


――ありがとう
  産んでくれて
  ありがとうございました


「ありがとうございました……!」

美影の声。震えを帯びた響きは、すぐに宙に溶けた。言葉を追った涙。重なる嗚咽。

久遠は、美影の嗚咽が終わるのを待った。美影が頬を拭ったタイミングで立ち上がり、思いを音に。

「ソウヤはなぜ、九十九山で死んだのか……俺は、限界がきたんだと思う」
「限界?」
「空間を行き交いすぎて、自らの均衡を保てなくなった。おそらく死を迎える前に、体の変化には気づいていたんだろう。おそらく巫女も、ソウヤの変化に気づいていた。ソウヤが空間を往来するたび、零念も流れ込んだ。だが巫女は止めなかった……ソウヤはお前に会いたかった。巫女は、その気持ちが理解できたのかもしれないな」
「……母さんは? どうしてで死んだの?」
「子を生して命を落とすことは、珍しくない。普通の状況での出産ではなかったのなら、尚更だろう」
「私を産んで、母さんは死んで、父さんも死んで巫女も……私は、私は何もできなかった。せめて巫女の代わりに、私がここに」
「やめろ。自分の生も両親の死も、お前がコントロールできることじゃない……流れだ。逆らえない流れに乗って、俺達は生きている。できるのは、せいぜい舵を取るくらいだ。悔しければ、お前自身の舵を取れ」
「私自身?」
「災厄と早く通じることだ……もう行くぞ。巫女が生きてるうちに、ここを出るんだ」
「まだ生きているの?」
「時間の流れを緩める結界を巫女に施した。ほんの僅かな時間だが……続きは歩きながらだ。急げ」

久遠の手が、美影の左手を掴む。驚きに手を振り払う動作も忘れ、抗うこともできず、美影は桔梗に背中を向けた。

早足で歩き、木立に突入。久遠は更に足を速める。会話は再開させる様子はない。美影は自ら口火を切った。

「久遠が結界を張れるのは、お父さんの影響?」
「血筋だろうな、厄介なことに」
「厄介って……お父さんに、会いたいんじゃないの?」
「色々言ってやりたいことがあるからな。子どもの頃から親父の残した備忘録を読み込み、結界の成り立ちを学び、空間を超える術も身に着けた。それでも、俺が扱える結界は僅か。しかも術は弱い。純粋な脱厄術師ではないからな。宿災の血のほうが強いらしい」
「血……私の災厄は、どっちから?」
「ソウヤだ。ソウヤは自分が手にした石をお前に渡し、気を辿って会おうと考えたんだろう……山護美代は、恐ろしかったのかもしれない」
「予感?」
「ソウヤが、いつかお前を連れて行ってしまうのではないか、お前の人生まで山に捕られてしまうのではないか……だから、自分の亡きあと、会長にお前を託し、湖野から離した。だが父親からの贈り物を、やはり渡してやりたいと思ったんだろう……山護美代は、お前に自由と愛情を持たせてやりたかったんだ」
「自由と、愛情?」
「なにかに捕らわれない自由と、父親はいつもお前を気にかけていたという愛情だ。例え真実を語る時がこなくても、それでも、思いを届けたかったんだろう……山護でありながら山に歯向かった。全力でお前を育て、守った……山護美代は……お前のばあちゃんは、最高だ」

刹那、久遠は美影を振り返った。その顔には、笑み。見間違いでなければ、そう呼べるもの。

美影の目から涙。嬉し涙。あの石に込められた思いを知ることができた。祖母の思いを、父の思いを、真実を、手に入れた。

零れ続ける感情を溢れさせたまま、先へ、先へ。木立が途切れ、草原が視界に入った時、冷涼な風が2人の背に触れた。

「屋敷の結界が崩壊したようだ……」
「巫女は、あとどれぐらい?」
「わからない……結界が壊れたことで、巫女は今、お前が返した石を通じて、お前の胸の内を感じようとしているはずだ」
「え?」
「お前の気持ちを知りたいと、思いを感じたいと言っていた……愛したソウヤの、娘だからな」
「……私は、どうすればいい?」
「思い描くんだ。巫女が目の前にいて、直接語りかけている様を」
「やってみる」

美影は、そこに石があるかのように、胸の前で右手を握った。足を動かしたまま目を閉じ、巫女の姿を頭に描く。面に隠れた顔。白衣と朱袴。


――頬を叩いてしまって
  ごめんなさい
  父を受け入れてくれて
  ありがとうございました

  母を弔ってくれて
  ありがとうございました

  長い間湖野を見守ってくれて
  ありがとうございました

胸元で握った手は熱を帯びる。美影の中に描かれた巫女は、静かに面を外した。

若く、美しく、滑らかな、白い顔。それは刹那全貌を見せたが、輝く光に包まれ、消えた。


美しい影は
多くの光の下に生まれる


全身を巡った声。それは夢の中で聞いた歌声と同じ。やはりあれは、巫女の歌。


――やっぱり貴方は
  私を呼んでいたんですね
  何もできなくて
  ごめんなさい


謝罪の念を刻んだ美影の頬に、風が触れる。それは雪を運ぶ冷たい感触。しかしどこか、温かい。

「着いたぞ」

久遠の声に、美影は目を開いた。広場。視線の先に、小さく揺れる茜色。その傍らで草をはむ白馬。

穏やかな景色に触発され、心は休息を欲し始める。しかし足を休めず、美影は久遠に並んで歩を進めた。2人の気配に気づいた白馬が、しゃがみ込んだフキの背中に鼻をつける。

「あねさん!」

白馬の知らせに振り返ったフキ。駆け出し、美影のもとへ。美影の手から久遠の体温が去る。美影は駆け寄ったフキを、両腕で抱き留めた。フキは美影の顔を見上げ、口角を下げる。

「ごめんなぁ、みつかんねえんだ」
「私こそごめん! 勘違いだった。向こうの木立の中に落ちてた。随分探したでしょ? ごめんなさい」
「んで見つかんねえはずだなぁ。んでも、あったんならいいな!」
「ありがとう」

フキの頭を撫で、美影は静かにその手を取った。白馬の方へ、並んで足を進める。しかし、聞こえるはずの足音がひとつ、足りない。

美影は、久遠を振り返った。ジーンズのポケットに両手を突っ込んだまま、久遠は立ち尽くしている。一歩を踏み出す気配は、まるで感じられない。

「……帰るよね。一緒に帰るんだよね?」
「俺は残る」
「やだ……やだ、帰ろうよ。待ってるよ、みんな。それに約束した! 私の話聞くって、謝るって!」
「約束は守る。ここが眠りにつくのを確認したら戻る」
「眠り? 眠りってなに?」

投げた問いに答えは返らず、代わりに風が頬を撫でる。雪の匂いを含んだ、冬の風そのもの。

「早く行け。直にここも雪に包まれる」
「やだ」

即答した美影に向かって、久遠は足を進めた。腕を伸ばせば触れられる位置で止まる。

「服を。それは特別な物でな……それがあれば、万が一は避けられる」
「万が一って……やめてよ、そんなんだったら返さない、私も残る。戻ったって何があるわけじゃないもん。家族もいない、住むところも、仕事も……誰も困らないよ!」
「馬鹿か」

真顔で、真っ直ぐに。馬鹿と放った久遠は一歩、美影に近づく。

「目に見えないものを信じられるようになって、目に見えていたものが見えなくなったか? だとしたら、馬鹿以外の何者でもない」
「……バカで結構。バカだから……バカだから、自分がどうすればいいかわかんないんだよ!」

地面に顔を向けた美影。その手を、フキが強く握る。

残響が去った空間。通り抜ける冷風。舞い落ちる雪。

場の空気を読んだのか、白馬は美影の隣に歩み寄り、左肩に鼻をつけた。かかった息の温もりに視線を。その視界の端で、久遠の気配が動く。

「誰も困らない……その言葉。石寄会長の前で、香織さんの前で言えるか? あの人達の笑顔の前で、同じことを言えるのか? 目に見える愛情を、触れられる愛情を、素直に受け入れろ。馬鹿なりに考えればわかるはずだ……もう行け。ここはもう安全ではない……服を」

骨ばった久遠の手が、美影に伸びる。宙でピタリと止まり、揺らぎを見せない。


――少しは揺らいでみせてよ……


はっきりとした目的を持って、この男は生きている。自分が駄々をこねようと、この男の芯は、決して揺らぎはしない。

美影はシャツを脱ぎ、畳みもせずに差し出した。久遠の手がシャツを掴む。美影はシャツを放さずに、口を開いた。

「絶対戻って……ちゃんと殴らせてよ、思いっきり殴るから。それに聞きたいことも、まだたくさんある。私は自分の真実の境界線を見つけたい。だから……まだ導いてくれる人が必要なんだよ……」
「戻る。必ず……だから、お前も約束してくれ。その子の手を離さず、湖野まで導くんだ。あとのことは鷹丸さんに相談しろ。子どもひとりの居場所ぐらい用意してくれる。お前の居場所は、お前自身で見つけろ。どうしても駄目なら、その時は俺達といればいい……陰に生きるのも、そう悪くない」

再び涙腺が緩む前に、美影はシャツを解き放った。空っぽになった手で、フキの手を握る。白馬の鼻を軽く撫で、美影は久遠に背中を向けた。自分の足音。フキの足音。白馬の足音。足りない久遠の足音を待って、目の前が滲む。

右手はフキの手を、左手は白馬の手綱を握り、もう迷うことは許されない。自分をこの場に導いた、なにものかの姿はない。無事に空間を越えられるだろうか――当然の不安が、美影の顔を振り向かせようと、肩を叩く。

不安が首に手を絡める寸前、背中に風。雨の匂いを含んだ、生暖かい強風。


――これは久遠の災厄


お前に施された結界が祠にしか反応しないのは
お前への負担を考えてのこと以外にも理由があると思っている
そこで再びソウヤと出会うため
そんな配慮だったと俺は思う

そしてお前は
こちら側からでも祠に辿り着ける
それは山護美代に対する配慮
お前に施された結界は
お前を愛する人間のもとに導くための結界
そう信じて進め
お前が感じるままに行けばいい
どちらからも手を離すな

頼んだぞ


「わかった……絶対に、離さないから……」

声を放ち、口を閉じて、むせ込む。両手は塞がっている。涙は拭えない。


頼みはまだある
あの手帳を会長に返して欲しい
戻ったら俺も訪ねるが
あれは大切な物だ
少しでも早く返したい


顔を真っ直ぐ前に向けたまま、美影は首を縦に動かした。溜まっていた涙は頬を伝い、風に乗って先を急ぐ。


宿災は陰に生きる存在
目に見えないもの達もまた
多くが陰に潜んでいる
だが影がある場所には必ず光がある
美しい影は多くの光の下に生まれる


巫女と久遠。何故ふたりは同じ言葉を。尋ねたかったが、今は振り返ってはいけない。

「自分が成すものを悔やむな。省みて希望に変えろ。親父の受け売りだが……忘れないで欲しい!」

久遠らしくもない大きな声。心にではなく、耳に届いた。

「……そんな声、出せるんだ」

意外な行動に、笑みが零れた。


――大丈夫
  背中を押す風は
  まだ力を弱めない
  大丈夫
  このまま真っ直ぐ行けばいい。


美影は両手に力を込め、大きく息を吐き出した。

白馬はひたすら蹄を鳴らし、フキは細かく足を動かしながら、時折美影の顔を見上げてくる。その視線に答え、目元を緩める。

香織、中森、灯馬、鎖火、水輪、鷹丸。そして石寄。誰かの笑顔に救われてきたことを、美影は強く実感していた。今は、自分がフキに安心を与える時。


出会いは幸運
別れは自分を試す試練


美影の中を、祖母の言葉が巡る。


ひどい出会いだった
だけど幸運だった
自分に与えられた愛情を知ることができた

別れはついさっき訪れた
永遠のものと
そうではないもの

永遠ではない別れは巡り巡って次の出会いとなる
きっとそれも幸運

人はいずれ死ぬ
永遠の別れがくる
今日目の前にいた人間が明日もいるとは限らない


だから今この手にあるぬくもりを
出会ったぬくもりを離さずに
この手の持ち主に新しい出会いを
たくさんの幸運を

私もまた出会いたい
刹那の別れを悲しまず
また会う日を
幸運を願いながら帰ろう

帰ろう
私の
私達の故郷へ


強い思いが、美影の周りに漆黒を呼び寄せた。美影の左右。闇に塗り潰された壁。圧迫感。息苦しい。己の意思を試される時。


視界に光はない
闇に目が慣れることもない
足は止めない
目を閉じない
手を放さない

鼓膜に触れる鈴の音
祖母が山を巡る音
懐かしい

この場所は馴染み深い湖野の山
祖母と自分を巡り合わせた始まりの場所

闇に光
夜の終わりに差し込む朝日
空に帰る星
空に帰ってきた太陽

しなやかに立つ白装束

ただいま
待っていてくれて
ありがとう


「おかえりなさい。美影」
「ただいま……灯馬」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?