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noteを本格始動します。

先ほどツイキャスで少し話したものの、時間内にうまく話をまとめきれなかった「今後のTwitter発信」について、もう少し詳しく説明したいと思います。

実は先月「Twitterの発達アカウントをやめる」ことを真剣に考えていました。
いわゆる「発達界隈を卒業」などというポジティブな(?)動機ではなく、むしろ「発達界隈から身を引く」のほうが今の私の心境に近いかもしれません。
その理由を一言で言うと「自分を老害のように感じた」からです。

「驕り」と「打算」があった

アラフィフ世代であり社会人になって発達障害の診断を受けてからも約15年経っており、SNSが始まる前から発達障害関係の掲示板に出入りしていたりして、自分のことを「発達障害のベテラン」のように感じていました。
そのことが私のツイートに「驕り」という形で表れてしまったのだと思います。「私は年長者なのだから人より自分の発達障害に向き合っている時間が長い」「子供の頃から困り感があった」「グレーゾーンでなくガチ勢」のような意識があったのも事実です。

また、ADHD当事者に比べてASD当事者の人口が少ない上にコミュニケーション重視の現代社会においてASDの方がより多くの人にとって困り感が強く、その分ASDに関する情報のニーズが高いということを感じていました。Twitterでも有用な情報を発信するADHD当事者アカウントがいくつもあり、ADHD当事者アカウントとしては私が入り込む余地はなさそうでした。
一方でASDに関するツイートはいつも反応が大きく、ASD当事者からの共感やASD当事者を家族に持つ定型発達者からの関心の高さに「こっちがブルーオーシャン(←競争相手のいない未開拓の領域)だな」という確信を得たのです。

「キャリアなし、パートナーなしの非キラキラ系女性ASD」というちょっと詰み感のあるセルフブランディングによって他の当事者アカウントとの差別化を図れるという打算がありました。

おかげさまでこの4年間で予想以上にたくさんの方にフォローしていただきました。フォロワー数1万超えのアカウントも珍しくない発達界隈において、フォロワー数7000人というのは「インフルエンサーというほどでもないが、それなりに注目度は高いアカウント」という位置づけだと思います。
しかしこの「それなりに」が曲者なのです。「何を言ってもデカい声になってしまう」からです。自分が何かを主張したい/広めたい場合はアドバンテージとなりますが、何の根拠もなくふと思いついたことを独り言のようにつぶやくと「根拠は?」「データはあるんですか?」と正確性を求めるリプや「そうとは限らないんじゃないですか?」「表現に気をつけてください」と批判的なリプが飛んできて「そこまでシリアスな主張のつもりじゃなかったんだけどな...」とツイートを消してしまうこともありました。

私の書き方が拙いためか、一時期は何をツイートしても「その書き方はちょっと...」という指摘が飛んできて「もう私からツイートはしないほうがいいんだな」と他の方のツイートで気に入ったものをRTすると今度は「大手の人にRTされて変に広まってしまった...もうあのツイート消そうかな」と、せっかくの素晴らしいツイートを消されてしまうことも一回や二回ではなく、その度に「私が不用意なRTをしたせいで」と落ち込んだものです。

年長者であるという「驕り」とブルーオーシャンを狙おうという「打算」。これが現在私が陥っている「困り事」の二大要因だと認識しています。自業自得にもほどがあるのですが、これまでずっと自覚できていなかったのは迂闊なことでした。

「Lu=ASDの人」というキャラクターの弊害

これまでASDをメインに発信してきたこともあり、Twitterの発達界隈では「Lu」といえば「ASDの人」というイメージだと思います。ここ一年ぐらいは「ASDは」という主語で始まるツイートを極力控えているのですが、「私はこう思う」みたいな個人に関するツイートでも定型発達の人の引用RTの「ASDの人ってこう考えるんだな」というコメントによって「ASDに特徴的な考え方や感覚」として広まります。

ASDはあくまでスペクトラムですから私の考え方や感覚は「ASDの特性の一形態」に過ぎず決して「ASDを代表するもの」ではないのですが、ASD当事者を家族に持つ定型発達の人は常識では理解しがたい家族の言動の根源となるものを見出したいと必死なあまり「発達界隈の、何やら声のデカいASD当事者」である私のツイートからASDに特徴的な思考パターンを読み取ろうとしているのだと思います。
その気持ちはわからないでもないのですが、私個人の感想や意見でしかないものをあたかも「ASDの特性」や「ASDならではの感覚」と解釈されて広められ、それを私も容認してしまったことで他のASD当事者の方に「私には全然当てはまらないのに...」というモヤモヤ感や不快感を与えてしまったと感じています。

ASDの配偶者や子供たちの不可解な言動に悩まされる定型発達者のフォロワーの方の気持ちに寄り添おうとしてついASDの特性についてネガティブで批判的な説明をしてしまい、他のASD当事者のフォロワーの方の気持ちを傷つけてしまうということも多々ありました。

また知らず知らずのうちに私自身が「世間一般的にイメージしやすいASDの人」として振舞ってしまってたことに気づきました。元々私の中にあったASD特性だけでなく、それ以外のASD特性まであたかも「私の特性」として上書きしてしまったのです。本来なら「発達障害」や「ASD」という枠にとらわれずに「自分らしさ」を追求していくのが当事者のあるべき姿なのに、Twitter受けのする「ASDの人」として振舞っているうちにかえってどんどん自分を既存の「ASD」の枠内に閉じ込めてしまっていたのです。これでは本末転倒です。

「Lu」がTwitterの発達界隈にいつまでも居座ることが、自分のためにも周りのためにも好ましくないと感じるようになりました。

noteという「少し遠く離れた場所」から発信する

前々から思っていたのですが、Twitterは「お互いの距離が近すぎる」ツールだと思います。日常のコミュニケーションの9割以上が表情や声のトーンなどの非言語的な情報で占められることを考えると文字情報のやりとりがメインのTwitterはコミュニケーションとしては不完全なツールであるにもかかわらず、(鍵をかけない限り)誰でもリプライや引用RTで気軽にコメントを書けてしまうという仕様のために、ツイートの意図を誤解されたと怒ったりツイートの内容に反発を覚えて文句を言ったり等のいざこざが起こりやすいのです。

発達障害特にASD当事者が他者と良好な関係を維持するにはある程度の距離感、具体的に言えば「ASDの外モードを維持できる程度の距離感」が必要だと思うのですが、Twitterは自由にリプライやコメントを書けてしまう仕様上この距離感が不安定になってしまう危険性を孕んでいます。結局、不特定多数の多様な意見や立場の人達が集まるコミュニティ(Twitter)から少し離れたところ(note)で「私はこう思う」と好き勝手にボソボソ独り言を呟いているほうが本来の私らしいスタイルではないかと気づいたのです。

以前の記事にも書きましたが、本質的に発達障害の特性についてはとてもTwitterの140文字数では説明しきれないものだと思います。当時「発達障害の特性のうち、ネガティブな内容はツイートしない」というルールを自分に課していたのですが、周りに流されやすい性格のために最近は全く守れていなかったので、改めて「発達障害のことは今後はnoteから発信する」を徹底したいと思います。

今回は報告ということでツイートしますがnote更新のアナウンスも今後はTwitterではしないつもりなので、よろしければnoteのほうをフォローしていただければ嬉しいです。
今後ともよろしくお願いいたします。


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