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私の中の「偏見」について。

発達障害者の悩みのひとつに「『発達障害に見えないね』と言われるのが辛い」というのがあります。
障害を抱えながら周りに適応しようと薬を飲んで命を削るほどに必死に努力してるのに、その大変さが透明化される(なかったことにされる)のが嫌だということなのだと思います。「何も変わったことはしていないのに何でそんなに疲れているの?」につながることでもあるからかもしれません。

しかし正直な話、私などは「『発達障害に見えない』と言われるなんてうらやましいことだな」と思ってしまいます。
私自身はTwitterでも色んな方から「ガチASDって感じですね」と言われてしまうぐらいですから、「発達障害に見えないね」と言われたら「発達障害に見られない努力が認められた」とうれしく思ってしまうと思います。

…とここまで書いて「発達障害に見られない努力って何だ?」とはたと気づきました。

人から「ガチASDって感じですね」と言われたときに「ASDに見せないように気を遣ってるつもりなのにやっぱりASDっぽさがダダ漏れしてしまうのか」と落胆した気持ちになるのは私自身にもASDに対する偏見があるからではないかと気づいて我ながら愕然としたのでした。
相手はニュートラルに「ASDに見える(定型の私とは違う/ASDの私と似てる)」と言っているだけで別に非難しているわけではないのに、勝手に私が「非難されている」と解釈して落ち込んでいたのです。

私がASDなのは紛れもない「事実」なのです。ASDに典型的な特性が私にはいくつもありますし、実際診断も受けています。「事実」なのに何故落胆してしまうのかというとASDの特性を「好ましくないもの」と自ら思い込んでいたのです。「ASDに見せない努力」をしていることで自分で自分を否定してしまっているのです。

言うまでもありませんがASDにせよADHDにせよ特性そのものが「好ましくない」わけではないのです。状況や場所によっては特性が好ましい方面に出ることだってあるでしょう。
しかし凶悪事件の加害者がASDと報道されることが増え、またASD当事者のパートナーが意志疎通の困難から心身を病んでしまう「カサンドラ症候群」が近年注目されていることから「ASDの特性は好ましくないもの」というイメージが巷にも広まっているように感じられます。最近ADHDを公表する芸能人や文化人が増えていますが、ASDを公表する人が圧倒的に少ないのはこのような世間的イメージと無関係ではないように思います。

確かにASDの特性(考え方や感覚)はADHD以上に定型発達者にとっては「異質」なものですから違和感を与えたりときには不快感を与えることもあるでしょう。定型発達者と関わる場合はその事を考慮する必要もあるでしょう。
しかし「定型発達者である相手の考え方や感覚を尊重する」ことは「ASDである自分の考え方や感覚を卑下する」とイコールではないのです(これもASDの「白黒思考」「勝ち負け思考」と関係あるとは思いますが…)

下手すると「自分のASD特性を否定しながらも、定型発達者の考え方に関心を向けてもいない」というどっちにとってもプラスにならない状態に陥っているのが今の私かもしれません。

以前の記事にも書きましたが、ASD当事者がいくら定型発達者の会話パターンを覚えまくって定型発達者のように振る舞っても決して定型発達者そのものにはなれないしコアのASDの部分は変えられないのです。それは日本人がいくら英語を流暢に話せるレベルまで勉強しまくっても決してネイティブスピーカーにはなれないのと似ています。

でも世界共通語である英語を話し国際社会で活躍する日本の人達が「自分が日本人であること」を恥じているでしょうか?また国際社会が日本人に求めているのは「相手に伝わる言葉で話す」ことであって「日本人をやめる」ことではないはずです。

同じように定型発達者が私に求めるのは「定型発達者向けのコミュニケーションスキルを身につける」ことであって「ASDに見られないようにする」というのは相手の求める努力の本質ではありません。「定型の考え方を尊重しつつASDである自分を否定しない方法」はあるはずです。それを考えるのが今の私の課題であり目標であります。

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