排他、そこにカメラを向けるとき/『すばらしき世界』を見て

今日から公開の『すばらしき世界』を先日試写で見た。その晩ずっとこの映画の事を考えていた。

私が悲しかったのはこの映画の結末ではない。むしろあれだけ自分の事で涙を流してくれる人がいたらどれだけ幸せなんだろうとすら思った。超ハッピーエンドである。まだ20代で、悦ばしいことに健康体だが、自分がこの世を去る時あんなに人に惜しまれる気が今から1ミリもしない。
それより逸脱した人を除け者扱いすることで成り立ってしまうコミュニティと、それをエンタメとして切り取って成立してしまう仕事がこの世に蔓延していることをこれでもかと見せつけられてちょっとぐったりしてしまった。

それこそ就職先のシーンが一番キツく、社会に出たり普通の生活と呼ばれるものが出来ていたら、言葉で誰かを庇ったりそれはおかしいと突き返すことだって出来るが、彼は拳を振りかざすか周りに合わせるしか知らなくて、それを選んだ自分が情けなくて泣きながら帰るしか出来なかった。本人の性格もあるだろうが、育った環境がそうさせたと思うと酷なものがある。

世の中から危険なものを排除する仕組みは整っており、それは確かに私達を守ってくれているが、彼らが真っ当に生きたいと願ったとき、その手を真面目に取ろうとする人はどれほどいるのだろう。

それからカメラを構えるということについてめちゃくちゃ考えた。
最近機会があってよくドキュメンタリーを見るようになって、年末のNHKのドキュメンタリーについての討論番組を見たり、人にカメラを向けることについて、何となく考えるようになっていたところだった。

人の人生をエンタメとして扱うメディアマンとして吉澤(長澤まさみ)は最初描かれていて、まあ吉澤みたいな人が多分メディアを作る人に沢山いるのも事実だと思うが、海辺でカメラ取り上げて吐き捨てた事が意外とまともで拍子抜けしてしまった。

吉澤が言ってることは、カメラを回しているからには伝えるか破棄するか責任を取れと言う意味に私は取れて、なんだかんだそこに対してのメディアの責任感は自負しているじゃないかと思った。
半端にカメラを回して半端にそれを扱う危なさをなんとなくこの人はわかってるような気がした。その甘さは確かに津乃田にはあったし。


これを見たら是非『ヤクザと家族』もセットで見てほしい。向こうではどうしてもそう生きざるを得なかった人の人生がある。両方北村有起哉が出ているのだが、役の立場があまりにも真逆なのでちょっと不思議な気持ちになりつつ、どちらも生真面目で自分の立場を全うしながらどう生きるのかを葛藤する、大変味のある役どころだ。上手だよなあ。そのうち2本立てを早稲田松竹や新文芸坐あたりががやってくれる気がする。


試写室は都心のど真ん中に位置するオフィス街にあった。高々と伸びるビル群とその光たちの合間を縫いながら歩く帰り道は、確かにその地に足がついているのに、どこか猛烈に遠く浮き世立って見えた。

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