Ⅶ.夢の子-1
長い長い初夏の夕暮れ。ほんのりと残照を留める静かな書斎で、レイヴンはひとりパソコン画面に見入っていた。何度も検索を繰り返しながら必要なデータを集め、醒めた表情でデータ群を一瞥すると彼は椅子の背に深々ともたれかかった。
外はまだ昼間のように明るい。それでも日はだいぶ傾いて暖かい空気に涼風が混じり始めていた。街のざわめきが微風に乗って微かに響き、レイヴンはふと顔を上げた。物憂い金色の光がひっそりと辺りを漂っている。
その静けさは不思議な力でノスタルジックな想いを心の奥深くから呼び起こした。脳裏に一瞬、捉えどころのない風景が淡く浮かぶ。それは優しい声の気配だけを残して儚く消えた。
ふたたび画面に視線を戻し、エイダの相貌を丹念に思い描く。動揺はもはや感じなかった。既にエイダは彼にとって観察対象としての意味しか持たないものへと成り果てていた。
レイヴンは座りなおし、画面を見つめて冷ややかな微笑を浮かべた。
「……無様だな、ウィルフォード。あんなに慌てふためいて……。〈白の王〉をずいぶんと喜ばせてしまったじゃないか。まぁ、でもおまえと違って私《レイヴン》は平気だよ。私は〈地獄《ゲヘナ》〉の業火で焼け焦げた、真っ黒な化け鴉。優しいだけで無力なおまえ《ウィルフォード》ではないんだからね……。〈白の王〉にきちんとそれを教えてやろうじゃないか」
くす、と小さな笑い声を洩らすとノックの音がした。
「──入れ」
遠慮がちにドアが開いてグリフォンが顔を出す。
「そろそろ夕食にしようかと思うんですが……。お仕事ですか?」
「いや。今行くよ。──グリフォン」
「はい?」
ちょいちょい、と手招きされ、グリフォンは机に歩み寄った。思案顔で見上げていたレイヴンが、ひょいと立ち上がるなりグリフォンの顔をぐいと引き寄せる。
「!? な、何ですか……!?」
至近距離からじろじろと眺め廻されてグリフォンはたじろいだ。真面目くさった顔で観察していたレイヴンは、納得がいった様子で少々意地の悪い笑みを浮かべた。
「うん。やっぱりおまえのほうが、ずっと出来がいい」
「は……?」
きょとんとするグリフォンから、レイヴンはあっさりと手を離した。
「今日のメニューは何?」
「え……と。メインはジャガイモと挽き肉のグラタンです。あと、トマトとキュウリをカッテージチーズで和えたのと、デザートにヨーグルト・ムース……」
「美味そうだな。すぐに行くよ」
「はい」
グリフォンは頷いて書斎を出た。食卓を整えているとレイヴンが現れてふだんどおりに席に着いた。すでに完璧に平静さを取り戻している。だが、今日一日彼はどう考えても『変』だった。
一日のうちにこれほど感情の振幅を見せたことなどかつてない。レイヴンは基本的にいつも落ち着きはらっていて感情をほとんど表に出さないのに、今日は一日で喜怒哀楽のすべてを見たような気がする。
うなされて目覚めたときからおかしかったが、変調が最大になったのはやはりエイダと顔を合わせたときだろう。見知らぬ幼い女の子に『ママ』と呼ばれてムッとしたのかと思ったが、どうも違ったらしい。レイヴンは女性に取り違えられても気にしない人だ。
(今頃どうしてるかな……)
幼い女の子が迷子になっていると思えば心配ではあるが、〈顔なし《フェイスレス》〉であるグリフォンはレイヴンの命令に背くことができない。主人《マスター》に禁止された以上、勝手に捜し回ることはできないのだ。道義的責任を云々するなら、それはむしろグリフォンの持ち主であるレイヴンが負うべきものだ。
グリフォンには、ある意味人間よりはるかに立派な道徳観念が、ドードーことドクター・ダンバッハによって詳細かつ良心的にプログラムされている。しかし、それを厳守すべしというコマンドは併記されていない。
事情はよくわからないが、そんなものいらんとレイヴンが撥ねつけたのだと、それとなく聞いてはいた。
ドードーはそれを非常に気にしていて、『レイヴンの言うことは常に正しいとは限らないのだから決して鵜呑みにするな、自分の良心に照らしてよく考えろ』と、ことあるごとにグリフォンに言って聞かせるのだった。
そんなわけで、現在グリフォンはジレンマに陥っている。優先命令としてレイヴンの指示に従いつつ、迷子の幼女を街中に放置するという『非道徳』な己の行為が気になって仕方がない。
食事の給仕をしながらずっと考えつづけたが、どちらも満足させる答えを出すことは結局できなかった。
食卓は静かだった。静かすぎるほどだ。食べ終わった皿を片づけてデザートとコーヒーを出す段になって、ここにも小さな異変が存在していたことにやっとグリフォンは気付いた。
食事が始まってから、アリスが一言も喋っていない。
アリスがこの家で暮らすようになって最も変わったのは食卓の雰囲気だった。アリスは学校や街での出来事を夕食の席で事細かに喋るのが楽しいらしく、うるさいとレイヴンに小言を言われるくらいいつも賑やかだ。それが今日はむっつりと黙り込んでいる。
レイヴンもアリスのだんまりには気づいており、時々怪訝そうな視線を向けていた。
ブルーベリーソースのかかったヨーグルトムースを黙々と口に運んでいたアリスは、それが済むとごちそうさまと呟いて、そそくさと出ていった。いつもなら片付けをするグリフォンを手伝おうとするのに、今日は逃げるように自室に引き上げてしまう。
ダイニングに二人だけになると、コーヒーを飲みながらぶっきらぼうにレイヴンが尋ねた。
「おまえたち喧嘩でもしたのか?」
「喧嘩というか……、怒らせてしまったみたいです」
レイヴンは静かにカップを置いて嘆息した。
「──すまない。おまえを悪者にしてしまったな」
「いえ、そんな。いいんです、僕は──」
突如として鳴りだした電話のベルが言葉を遮る。グリフォンは急いで電話に向かった。
「はい。……はい、そうです。ちょっとお待ちください。──レイヴン、お電話です」
立ち上がったレイヴンに受話器を渡し、グリフォンは洗い物を済ませてしまおうとキッチンへ向かった。シンクに食器を置いていると、意外そうなレイヴンの声が耳に入った。
「──シャピロ?」
初めて聞く名前だ。肩ごしに振り向いたが、レイヴンはこちらに背を向けていた。
「ちょっと待て。別のところで受けるから──」
レイヴンは書斎の転送番号をプッシュすると受話器を置き、足早にダイニングを出ていった。
(……初めてのことがこんなに続けざまに起こるのは、久しぶりだな)
初めて見る動揺の表情、初めて聞く気弱な言葉。そして、まったく知らない、でも親しげな口ぶりの誰かの名前──。
レイヴンのことを本当はまだ全然わかっていないのだと、思い知らされた気がした。
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