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#0 始まりのストーリー

はじめまして!佐野月咲(さの るなさ)です。
アイスホッケー選手です。今年の春に、ハーバード大学を卒業して、今シーズンからオーストリアでプロとしてプレーすることになりました。そして、今更ながらNoteを書き始めました。少しずつの投稿になるとは思いますが、丁寧に自分の言葉で書けたらと思っています。よろしくお願いいたします。

自己紹介

まずは少し詳しい自己紹介を。
1998年生まれ。東京都出身。中学と高校は筑波大学附属中学校・高等学校に通い、大学はハーバード大学に行きました。アイスホッケーは5歳から始め、江戸川アーマーズ、西武プリンセスラビッツを経て、NCAA1部のハーバード大でプレーし、今シーズンからはオーストリアのザルツブルグイーグルスというチームでプロとしてプレーします。好きなこと/ものは、読書、歩くこと、コーヒー(淹れる匂いから好き)、カフェに行く、文章を書くこと、話すこと、昼寝、ドラム(趣味として日本にいるときは習ってました笑)、他にも色々あるので思いついたら更新します。性格は、簡単には説明できないですが、一つ挙げるとしたら、笑うことが好きです、よく笑います。あとは結構究極の負けず嫌い。二つでした。好きな食べ物は、和食。お寿司、茄子の煮浸し、酢の物とか、お豆腐も。最近は、海外にいると、ビーガンなことも多いです。最近、犬とか猫とか赤ちゃんとかが周りに増えて、すごく癒されています。新しい場所、知らない場所に一人で行ってみるのも好きです。

全てはここから始まった

と、いうと大袈裟な気もするし、全てが本当に始まったのは私が生まれるよりももっと、ずっと前の気もします。だから、より正確にいうと、一部はここから始まった。笑 なのですが、自己紹介代わりに、一つエピソードを載せる回にしたいと思います。

気がついたら道なき道を歩いていました。多分、加速し出したのは高校3年生くらいから。高校2年生の冬まで、日本の大学に進学すると思っていました。日本で受験しようと思っていたし、アイスホッケーも日本でずっと続けるものだと思っていました。それ以外の選択肢を知らなかったから。前例がないことは、自分からアクティブに求めに行かない限り、存在しない選択肢であることと同様だと、今になっては思います。

よく、「高校まで日本にいて、どうしていきなりハーバード?」という質問をいただくことがあります。普段は「アイスホッケーを大学の最高レベルのNCAA Div1でやりたかったから」と答えていますが、本当は正確にいうと、私がハーバードに行ったのは挫折からでした。

私は高校1年生の時、16歳で始めてU18の日本代表に選ばれてアメリカで行われた世界選手権に出場しました。初めての海外での試合、緊張している間にあっという間に終わって、でも、また次の年に戻ってきてもっと活躍したいと感じた大会。その次の年、17歳になり、私は再びU18の世界選手権を大きな目標に、毎日それを考えて、生活していました。それに懸けていた思いも注ぎ込んだ練習も時間も何より大きかったと思います。

でも、直前の合宿の後、大会に行く3週間くらい前に、代表から外れました。それまでは、そこを通過するのが当たり前で、その先に順風満帆な代表入り、オリンピック、と思い描いていて、その道を順調に歩んでいると信じきっていたのに、こんなにスタート地点で、こんなに早々と外れてしまった。今考えたらそこまでではなくても、当時の私にとっては全てでした。自分にとってアイスホッケーが全てなのに、これがなくなったら何もない、本気でそう思って、文字通り、途方に暮れました。本当は、この先の目標、アイスホッケーの夢を叶えたい、でも、このままここで挫折して、今までと同じ場所で同じことをしていても、そこには辿り着かないと、現実を突きつけられました。落ち込むので、SNSも全部消して、情報が何も入ってこないようにしました。通学中の電車の中でずっと泣いていて気がついたら山手線1周していたので、そのまま学校に行かず、池袋をうろうろしていたのを覚えています。

すごくすごく落ち込んで、どうすればいいか分からなくて、ただ学校に行ってチームの練習に行ってという日々を過ごしながら1週間くらい悶々としていたけど、一つだけ自分の中で決めていたことは、この気持ちを味わったのが自分しかいないなら、絶対にこれを無駄にしない。「これがあったから今がある」と言える将来を作る、ということでした。どうやってそうなるかは全く分からなかったけども。

それから2週間ほどした後、おそらく12月の半ば、母があるビデオをYouTubeで見つけてきました。それが、ハーバードホッケーの試合のハイライト。それまで何の知識もなく、ハーバード=学力がものすごく高いという印象しかなかった私が、その時初めて、ハーバードはスポーツの名門でもあることを知りました。ハーバードのアイスホッケー部には、世界ツートップであるアメリカとカナダの代表を経験している選手が多く所属していることもあり、直感的に「ここに行きたい」「ここに行く」と、感じました。この時はまだ、アメリカの大学に入るには何が必要かも、どれだけ大変なことかも知らないまま。笑 何も知らない、というのは時には最大の強みになるものです。

その後、アメリカの大学リーグNCAAのDivision1という一番上のリーグのハーバード大学以外の大学のことも調べ、高校2年生の終わりから、本格的に、大学はアメリカに進学することを決意して準備し始めました。ここからの話は細かくするとだいぶ長くなってしまうのでゆる〜く割愛させていただきますが、準備としては、英語力を上げて、アメリカの大学に進学するためのテストや成績をクリアする、そしてアイスホッケーで高校3年生の最後まで結果を出すことをしました。アメリカの大学スポーツはリクルートと言って、基本的に大学からスカウトされて大学にコミット(大学にいくことを約束する)するのですが、アイスホッケーなど特に北米で人気でレベルが高いスポーツだと早い年齢からコミットしている選手が多く、私がアメリカの大学に行くと決めた時点で、どの大学も私の年はロスターがいっぱいだと言われました。ですが、高校3年生の夏に、直接コーチ達の目の前でホッケーをすることができ、その後もコーチ達とメールのやり取りでコミュニケーションをとり、英語力もできる限りあげ、最終的にハーバードのコーチ達に来てほしいと行っていただき、無事にハーバードのアイスホッケー部でプレーできることになり合格することができました。いつかこの1年の話も詳しくできたらいいな、と思います。それまでずっと日本にいた私が、ハーバード大に入ってそこから5年(コロナ禍で1年休学しました)でした経験も、とても濃かったので1記事にはとてもまとめられませんが、いつかじっくり振り返りたいな、と思います。

私にとって、最初は経験したことのない大きさの挫折から始まりました。どうしたらいいか分からなかったし、周りのうまく行っている人が羨ましく見えたりもしていました。だけど、もしU18代表にその年に入っていたら、私はハーバード大学に行っていません。日本が本当に心地よかったので、自発的に海外で生活する、ということもなかったかもしれません。ハーバードに行って、こんなに素敵な人たちと繋がって、こんなにホッケーが楽しくなって、自分の中身がどんどん更新されていって、究極的なピンチも何度も経験して、そんな世界は高校2年生までの自分には想像していなかったです。だから、すごく不思議だけど、これも起こるべくして起こったと思うと、本当によかったと思います。ありがとう。

高校2年生の時、アメリカでホッケーをしたい、と思い始めた時、ご縁がありハーバード大学でサッカー部に所属して卒業された日本人の先輩にお会いしました。その時に、「挫折は失敗じゃないから」と言われたのを今も強く覚えています。そのあと本当に、挫折しても、それは必ずしも失敗じゃない、むしろ成功の始まりかもしれない、と、思える出来事を経験しました。ハーバードに入学するときはまだ、挫折して失敗した部分を出来れば隠していたかったから、なぜハーバードに来たかは誰にも言えないと思っていたけど、でも、「あの時があったから今がある」が今ははっきり言えると思うのと、ちょうど卒業したタイミングだったので、解き放ちました。笑 今はまだまだの自分ですが、私がたくさんの人にそうしてもらったように、自分の言葉と経験で人の役に立てたり背中を押せるようになれたりしたら嬉しいので、この時の気持ちや経験は忘れずに、その上に積み上げたものと一緒に大きく優しく広く強くなりたいと思います。

と、いうことで、長くなってしまいましたが、今回は、私の自己紹介代わりのエピソードでした。

初めてのnote (同時にもう一つ記事をあげる予定です)難しかった〜。話したり書いたりする時に、だいぶ感情が乗ってしまうタイプなので笑、読みづらいところがたくさんあると思いますが、今後書きながら上達していけたらと思います。

読んでいただいてありがとうございました!皆さんに今日もいいことがたくさんありますように。

月咲

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