『現代思想』3月臨時増刊号、千田有紀さんの論考をめぐって

『現代思想』3月臨時増刊号に掲載された千田有紀さんの論考をめぐって、既にたくさんの方が意見を表明されています。もちろん、全てに目を通しているわけではありませんが、この件について、わたしも不十分ながら自分の言葉で意見表明をしておこう、と思いました。

そう思うに至った出来事があります。千田さんは『現代思想』での論考への一批判に対して、ご自身のnoteで反論しました。その際に、わたしのTwitterでの投稿の一部を無記名で引用されたのです(経緯は後述します)。それについては、わたしが謝罪すべき点と、納得できないと思う点がありました。そして、思いがけず自分の言葉が「やり玉」に上がったことで、彼女の論の立て方について気づいたこともあり、今回の論考をめぐる議論にもかかわってくることなのではないか、と考えるに至りました。それを本記事で指摘するとともに、千田さんの論考への(文章を読んだ上での)意見と、改めてトランスジェンダーの人たちへの差別に反対する立場の表明をしておきたいと思った次第です。

まずは前提となる出来事を、補足しながら時系列で書きます。…あ、「補足」にはわたしの意見と「言い訳」も入っています。できるだけ長くならないように書きます。

<時系列の出来事+補足>

発端は、『現代思想』3月臨時増刊号(総特集:フェミニズムの現在)にある、千田有紀さんの論考「「女」の境界線を引きなおす 「ターフ」をめぐる対立を越えて」を読んだ「ゆな」さんによる、次のブログ記事(2020年2月20日)を読んだことでした。

千田有紀「「女」の境界線を引きなおす:「ターフ」をめぐる対立を超えて」(『現代思想3月臨時増刊号 総特集フェミニズムの現在』)を読んで

この文章を読み、わたしは千田さんの書かれた文章を読まずに、ゆなさんの主張にほぼ同意しました。そのときは、原文を読んでいないことが「千田さんに失礼だ」とは思わなかったです。引用された部分の表現に対する悲しみに、目と心が曇ってしまっていたかもしれない(実際泣けてきましたが)。ゆなさんのブログ記事を読んでいただくと分かりますが、膨大な引用をされています(後で確認したところ、千田さんの文章全体のおよそ4割でした)。そして、彼女が千田さんの文章で「最も問題だ」と述べられている部分の読みは、彼女が示してくれている引用部分において、確かに私もそう読めると思い、問題だと感じたのです(『現代思想』P251の、ジェンダー論の第三期として”これはトランスに限らない”とつながる箇所です。しかし、後のブログで千田さんは全くの「誤読」であると指摘されました)。ほかの、いくつか引用されていた千田さんの言葉、それ自体にも驚きや強い憤りを覚える部分がありました(後述します)。それで、Twitter上にこう書きました(2020年2月20日)。

ゆなさんの主張にほぼ同意します。ここまで丁寧に書いてくださったことに、深く感謝しています。/ただ、該当の文章をまだ読んでいない(手元にはある)ので、読み方(千田さんの文章の解釈)については違いがあるかもしれません。ちゃんと、読んでみます。ゆなさんの文章は、わたしが向き合ってきた何人かの人たちの言葉を思い出しながら、当事者性をもって読みました。涙なしに読めませんでした。/当事者性、なんて言葉自体おかしいな。

その日、帰宅後に『現代思想』を読みました。改めて、ゆなさんの主張にはおおよそ同意しました。「ターフ戦争」という、戦争になぞらえた二項対立的で極端な言葉の使用や、トランス女性(トランス男性も)の生きづらさをいくつかの項目に「焦点化」し、トイレ使用に関し「大学ではそれほどのトラブルは起こっていなかった」と、困難を矮小化して見えるように書いたこと、くり返される「男性器のついた女性」という表現など、一体どういう立ち位置から問題を紐解こうとしている文章なのだろうと不審に思いました。要は、わたしもゆなさんと同じように「千田さんの文章にはいくつかの差別的な、またトランスジェンダー当事者の困難に寄り添っているとはおよそ感じられない乱暴な表現が含まれている」と理解した、ということです(実は、性暴力などが原因でペニスを恐れる人の理由にも全く同意できませんでした。「貞操」といった社会規範を持ち出されている、249ページです。はっきり言って、こちらの表現の方が個人的には許しがたいと感じました。ペニスを恐れる理由が貞操-処女性という規範とは…)。ゆなさんの文章を先に読んでいたため、それに引っ張られて読んだ可能性は、もちろんゼロではありません。ひとつ、ゆなさんとの大きな読みの違いを挙げるとすれば、彼女のまとめの③「自由に構築できるアイデンティティなのだから、従来からのシス女性の安全を脅かすような仕方で女性トイレ等の使用を求めるのではなく、トランス女性はトランス女性のスペースをつくり、それぞれの安全を求めればいい。」については、そう読み取ることは可能だろうが、そこまで(「トランス女性はトランス女性のスペースを」とまでは)千田さんは明記されていないから断定は保留にすべきかな、と思ったくらいです。ただ、そういう読みをされても否定できない、隙間の多い(主語や、文章と文章の関連性を明示しない)文章だと感じました。

上記のことは、特段Twitterに書かずにいました。もうちょっと自分の中で整理できたら発言しようかな、くらいに思っていたのです。そうしているうちに、千田さんからの、ゆなさんのブログに対する応答が掲載されました。次のブログです(2020年2月22日付)。

「女」の境界線を引き直す意味-『現代思想』論文の誤読の要約が流通している件について

この中に、自分の上記ツイートの一部が、無記名で引用されていて驚きました。わたしは、身元を明らかにしてTwitterをしています。批判するなら直接名指しで批判された方がいいのでは?…と、最初は感情的に腹立たしく思いました。と同時に、確かに本文を読まずに第三者の批判に同意することは、「誰かの噂話をそのまま鵜呑みにして本人をジャッジすること」とあまり変わらない行為だから、あからさまにそれをされたら嫌な気分になるよねとも思いました。なので、その点(千田さんの『現代思想』での論考を「まだ読んでない」と書いたこと)については、100%わたしが悪いと思っています。ものを書く(言葉を紡ぐ)という行為に対して、敬意と配慮を欠いていた発言だったと、今は後悔もしています。さらには、Twitterという公開型(わたしはカギをかけていませんから)のメディアで、「自分をフォローしてくださっている人以外に自分の発言が見られる可能性」について無自覚だったことも反省しています。

いまさらですが個人的なことを補足すると、わたしは2003年からNPO活動をしており、研究者ではありません。30歳を過ぎてから、ようやく(これは、長年生きづらさを抱えてしまったわたしの実感です)フェミニズムに出会いました。フェミニストだと自覚していますが、そのことを前面には出していません。それから、千田さんとは「わたしは知っている」程度の面識です(相手がこちらを知っているのかどうかは知らない)。自宅にある彼女の著書は、思いつくものだけでも5冊あります。そもそも、わたしはTwitterを、現在ほとんど自分の趣味に特化して情報の受発信をしており、千田さんのアカウントもフォローしたことがありませんので、当然ですが彼女がTwitter上で誰とどのようなやり取りしていたかも知りませんし、彼女のことを「トランス差別的な研究者」とは、一度も考えたことがありませんでした。

ただし、Twitter上でのトランスジェンダーの人たちへのバッシングについては認識していました。『女たちの21世紀 no.98』の特集、『福音と世界』2019年1月号の、飯野由里子さんの記事、及びわたしもボランティアメンバーとして活動に参画しているウィメンズ・アクション・ネットワークにおける一連の記事(「女性と女性の活動をつなぐポータルサイト」をうたっています。トップページからキーワードを検索してみてください)などをとおして概要を知っていました。わたしには当事者の友人も知人もおり、「トランスジェンダーへの差別に反対」なんて、当たり前すぎて疑ったこともありません。それを宣言しなくてはいけない状況は、変えていかなくてはと思っています。でも、友人・知人がいるからわたしは差別なんてしない、とも思っていません。人は自分の経験値や知識でしか世界を見られないから、日々の言動の中で誰かを差別することは当然ありえます。自分のバイアスに気を付けていたとしても。それを、傷ついてしまった当事者に指摘してもらえたら、その言葉に耳を傾けて自分の言動を省みればいいって話じゃないんでしょうか。「誤読」だってそうですよね、日常会話のレベルでもあたりまえにありますよ。「それは誤読だ」と切り捨て、当事者との会話を閉じるのなら、そのテーマについては話さないでください、と思います。

この、千田さんからの応答の後、さらにゆなさんからの再度のコメントがブログに挙げられました。(2020年2月22日)

千田氏の応答に対して

彼女が、千田さん個人を否定されているのではないことは分かります。決して、トランス差別的な研究者に仕立て上げたいわけではないでしょう(私は、そう読みました)。だから、千田さんから、ゆなさんには何らかの直接の応答が再度あったらいいなぁと、個人的には思っています。そしてこれを読んだあと、気づいたことがありました。それを、最後に指摘して今回は終わろうと思います。

<ほんとうの主張は何ですか?>

千田さんの文章には、差別的な表現が含まれています。ただ、ご自身はそのような意図はなく「誤読」と言われたので、それを踏まえて読み直してみたところ、多分にミスリードを誘う書き方もあるのではないかと思いました。ミスリードを誘発していると思うのが、トランスジェンダーに紐づくような否定的な言説・事象の多用です。

わたしたちは、ある物事に言及されたら、意図・文脈を問わずそれを想起せずにはいられません(よくありますよね「ピンクの象について考えないでください」っていうやつ)。そして、そのイメージを残し、前後の文章との関連性を見つけようとします。最初に「戦争」という(二項対立的な)キーワードを使われたことから始まり、ゆえにどうしても「侮辱や暴力的なレトリック」「破壊」「不安が掻き立てられる」「乱暴な言葉」といった言葉も多用されることになったのではと思うのですが、それらの言葉から読み手は、その言動がどちらの側のものか、あるいはどちら側に起因するのかと二項対立的に受け取ろうとしてしまうのではないでしょうか。

それ(ミスリードを誘う書き方)は、わたしのツイートが採用された、ゆなさんへの反論においても同様に感じられました。わたしがこれを最初に読んだ直後の感想は、「え、わたしは、千田さんを差別主義者にしたい、なんて思ったこと一度もないんだけど!?」というものだったのです(大いに反省したのはそのあと。今回わたしが結果的にふるってしまったようなSNSのもつ暴力的な力については、別稿で考えてみたいことです)。

さらに、ゆなさんに反論しているのか、千田さんを「トランス差別をする研究者ということにしたい人たち(誰かは明記されていませんが、ゆなさんとは別の人たちですよね…)」に異を唱えているのかも、最後まで読んで分かりませんでした(全く別の話のはずです)。最初と最後に、ご自身のお仲間の存在を挙げられていたことからすると、ここでもまた二項対立で物事を考えていらっしゃっるのでしょうか。ほんとうは、元の論考で何を主張されたかったのでしょう。ありえないと思いながら、万が一、自分はトランス差別などしていない(自分はターフではない)ということの証明のために書かれた文章だったとしたら、それこそ、包摂的な社会へ向けた建設的な議論にはつながらないと思います。

最後に、この文章は、わたしのツイートを何らかの形でご覧になった方(千田さんの引用部分も含めて)に向けて書き始めました。わたしの配慮不足と言葉不足が招いてしまったことへの反省と、そもそも自分は今どう思っているかを発信したかったのです。もし、きちんと相手が分かるところでお話しできるのであれば、その人たちと前向きな議論をしたい。そのきっかけになるといいなぁとも思っています。

初めてのnoteです。長文なのに、最後までお読みくださってありがとうございました。







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