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「女」の境界線を引き直す意味-『現代思想』論文の誤読の要約が流通している件について

言ってもいない主張が、私の論文要約としてSNSで拡散され続けている

「大変。ネットにかなりの誤読がネットに投稿されてる。何とかした方がいいよ」と研究仲間から連絡があったのは、ニューヨークから帰宅する朝のことだった。まさに、上の写真にあるトイレ――All Genderと、旧態依然としたGenderの2分法に分かれたトイレの2つが併存するというカフェで、エッグベネディクトを食べていたときだ(双方をAll Genderにすればよいのに、All Genderの札をあとから貼りなおしたようなやっつけ感がある)。

前日には『現代思想』の「『女』の境界線を引き直すー『ターフ』をめぐる対立を超えて」が発表され、「説得的でとても良い文章だった」と数人の研究者から感想をいただいていた。

タイトルは編集者と相談し、「『ターフ』をめぐる対立を超えて」というサブタイトルは提案していただいたものをいただくことにした。メインのタイトルは、おそらく編集の方が勘案して「安心安全」といった文言の入った「無難なもの(ごめんなさい!)」をつけていただいたのだが、論文のなかで安心や安全の話はそれほど深めていないと思われたので、看板に偽りありなものにするのは嫌だった。「誰もこれに文句はつけられないでしょう」といった「炎上除け」の匂いがするのも、どうかなと思われた。

「『女』の境界線を引き直す」というタイトルに決めたのは私だ。かつて、「女とは子どもを産む存在」「女は生まれながらにしてに女であって、解剖学的な運命だ」といった生物学的な本質主義にまみれていた「女」というカテゴリーを、さまざまな存在--トランス女性も含む、現実に存在する多様な女たちを意味するカテゴリーとしてずらしていくことを主張するとてもいいタイトルだと思われたのだ。「女なんてしょせん」と女の本質を意味づけようとする、そういった追いかけてくる意味づけから逃れるために、「女」というカテゴリーを生物学的な本質主義から解放し、「共闘」しようという、トランス女性へのメッセージでもある(本文を読めば、当然そう受け取られるだろう、それ以外の読みがあり得るのだろうか、と私は思ったのだ)。

思ったような記事ではないと、なんだかんだと批判は来るだろうとは思っていた。しかし知人から紹介されたサイト(ゆなの視点:千田有紀「「女」の境界線を引きなおす:「ターフ」をめぐる対立を超えて」(『現代思想3月臨時増刊号 総特集フェミニズムの現在』)を読んで)は、細かく私の論文の引用があるものの、解釈がまったく異なっており(もちろん、読みは多様であるが)、さらに核心部分で、私が書いていないことがたくさん盛り込まれていた。真摯に書かれたものであることは伝わってくるのだが、私の論文の要約だと言われたら、明らかに「違います」と言わざるを得ないものだ。この要約だけを読んだら、私だって「なんて論文なんだ」と思うと思う。

「私はフェミニズムに関してもジェンダー論に関しても何ら専門家ではありません」と宣言する著者のゆなさんにむかって、私はなにもいう気はない。ただTwitter等で、この文章を紹介して判で押したように、「丁寧に書いてくれている」といったお墨付きを与える研究者については、驚きを禁じ得ない。私を「トランス差別をする研究者」ということにしたい、その結果、「差別主義者」である私の論文や発言に耳を傾けなくてもよいという状況をつくりたいひとたちがいるらしいことは認識しているのだが、フェアなやり方とは言えないとは思う。自分で責任を負う言葉を発するのではなく、専門家でない人の言葉を肯定的に紹介するのであれば、私の論文を本当に同じように読んでいると認定していいのだろうか。研究者として知りたいと思う。

また、この原稿用紙20枚ほどの論文に、先行研究や多くの論文を参照していないという指摘をされるのだが、ぜひ、私の論理展開に必要であるのに欠けている研究があるか、ご教授願いたい。見ていただければわかるだろうが、注だけでも膨大な量となりスペースを圧迫し、直接言及したものに限らざるを得なかった。もしも不足している論文を御教授いただけるなら、謙虚に学びたいと思う。

困ったことは、雑誌に書かれた論考はほとんど目に触れられることがないにもかかわらず、このネットに置かれた「要約」は実に簡単に、すぐに多くのひとの目に触れることだ。どんな論文を書いても、ネットに掲載された他人による「要約」のほうだけが流通することになってしまう。専門的な論文の内容を読むのは、意外に難しいものである。そうであればあるほど、そのような恣意的な「要約」が拡散させられるのであったら、研究者はたまったものではない。

「同意します。ここまで丁寧に書いてくださったことを、深く感謝しています」とゆなさんによる「要約」に対する賛辞の次のツイートを見ると、「ただ当該の文章をまだ読んでいない(手元にはある)ので、読み方(千田さんの文章の解釈)については違いがあるかもしれません」と書いてあり、力が抜けた。多くのひとが「読んでいないけれど」といいながら、私の論文に書いてもないことを、悪しざまに批判するという事態は、異常ではないか。

ゆなさんによる要約と、私の見解

きちんとした要約を掲載しようと最初は考えたが、よく考えれば発売されたばかりの論考の要約を載せるのも、失礼な話である。ゆなさんの要約を紹介しつつ、それに対してコメントをする形としたい。

ゆなさんによる要約は、ほとんどすべて、私が主張していないものである

第1節の内容を要約するなら、要するに従来の社会ではシス女性がペニスを恐れる十分な理由があり、またその常識に即して性別分離のスペースが作られており、である以上は、ペニスを持つトランス女性をシス女性が恐れるのは常識に従っているだけで差別ではないのだということでしょう。

この章では、カナダで成立したC-16が「ジェンダー・アイデンティティ」と「ジェンダー表現」を守っているという海外の事情を紹介し、イギリスで「ターフ」と呼ばれたマヤ・フォーステーターの論理を支持しないことが分析されている。とくに、「性別は生まれつきでなく性の自認で決まるという考えの“セルフID”を中心に性別変更を可能にすると、女性の権利が守られなくなる」ことを支持しないと述べている。そのうえで、日本における状況の話の最後に

ターフが「『ペニスが嫌いだ』といいながら、ずっとペニスについて語っていること」を「すごく異常な光景」「日本における特殊な『闇』」(と断じる)。

この畑野とまとさんの一連の発言に対して、性被害者などがペニスを恐れる理由を理解し、一方的に差別だと決めつけないで欲しいと言っている箇所、いわば議論の枝葉末節のところが、なぜ本筋に来ているのかはよくわからない。またゆなさんのまとめの、「またその常識に即して性別分離のスペースが作られており、である以上は」の該当箇所はない。検索したが「常識」は、日本の状況の説明のところで、1か所使われているだけであり、性別分離のありかたは、イギリスの記事の分析において使われている言葉である。そのふたつが結合してしまっている理由もわからないし、私はそのような議論をしていない。

第2章に移る。


つまり第2節ではジェンダー論の第三段階である身体とアイデンティティの自由な構築という発想がトランスに帰属させられたうえで、「自由というなら「女性」でなくてもいいではないか」と主張し、「女性」とは別に「トランス女性」という線を引けばいいではないかと論じているわけです。これが本論文のタイトルにある「境界線を引きなおす」なのでしょう。

私の論文において、ジェンダー・アイデンティティや身体の構築性の「発想がトランスに帰属させられた」ことはない。考えてこともなかった。これがネットでは流通しており、非常に困惑している。

私が論じているのは、アイデンティティや身体までもが「生物学的な所与」であることを離れ、その構築性があきらかなった「時代」であるということである。まさに1章で述べたC-16がその証拠である。新自由主義的な潮流を背景に、トランスのみならず、すべての人のジェンダー・アイデンティティやジェンダー表現が尊重されることが法律で定められるようにすらなってきているのだ。これは事実的な指摘である

また「「女性」とは別に「トランス女性」という線を引けばいいではないかと論じているわけです」と言うに至っては、非常な悲しみを禁じ得ない。そのようなことをしてはならないというのがこの論文の趣旨である。

トイレがどのように暴力と不安に満ちた場所として描かれ、ときにその不安はいかに差別に向かって動員もされる言説だったかということを指摘したうえで、様々なトイレの可能性を論じ(論文をぜひ読んで欲しい)、トイレの線引きの基準は性別ですらないかもしれないとまで思考しながら、「トランス女性が安全にトイレを使う権利」について考えようと述べている。

すべてのひとに安心・安全がもたらされるのかを問い、多様性のためには、相応の社会的なコストを支払い、変革していくことを合意することではないのだろうか。

このまとめの部分がなぜ、「女性」とは別に「トランス女性」という線を引けばいいではないかと論じているわけです、となるのか。そうしないための変革を提言しているのであるのにである。

続く第3章も、以下のようにまとめられている。

第3節は「ターフ探しがもたらすもの」では、シス女性たちの恐怖が差別意識から出たものではないということが主張され、仮に差別意識を持っていたとしても、差別意識を問題化し啓蒙を望むならば、それがうまくいかなかったときにいらだちを覚えるだろうと述べられたのちに、トランス活動家による暴力的な活動の例が列挙されます。

論文では相応のトランスに対する差別の歴史を認め、ただ仮に差別意識があったとしても、「差別意識」に問題を帰するのであれば、啓蒙と意識改革と帰結させられることを指摘している。シス女性たちの恐怖とは何であろうか。実体化して語られた恐怖はなかったはずである。私が取り上げたのは、畑野とまとさんによるトランスジェンダーについてもたれているだろう差別意識の例示である。ゆなさんは、「シス女性たちの恐怖が差別意識から出たものではないということが主張され」と書かれているが、まずシス女性たちの恐怖が何かは畑野さんの言説におけるレベルのものであり、シス女性の差別意識から出たものではない、などということは主張していない

また「トランスはたんに、破壊行為の口実として使われている可能性すらあるほどに、ターフはある種のスティグマとして機能してしまっている」ことを指摘したのであって、トランス活動家による暴力的な活動とは断じていない

 私たちが多様性に基づいた社会を設計するためには、問題の構造を見据えた私たちの社会的合意の達成によってなされるものであると信じていることを述べた章のまとめが、どうしてこのように理解されたのか。私の不徳の致すところかもしれないが、とても同意できない。

再びまとめ

ゆなさんはもう一度、私の論文をまとめている。

まとめましょう。千田氏の論文のストーリーはこうです。
1.そもそもシス女性には現在、ないし従来の常識に照らしてペニスを恐れる理由があるのであり、それは差別意識によるものではない。

畑野とまとさんが、(ターフがペニスにこだわることを)「すごく異常な光景」「日本における特殊な『闇』」と論じたことに対して、触れた枝葉末節であって、論文の起点はそこではない

2.トランスはジェンダーの第三段階に当たる、「身体もジェンダー・アイデンティティも自由に構築する」という発想のもとで自身のアイデンティティを自由に構築している。

トランスのみならず、私たちの社会がジェンダー表現やジェンダー・アイデンティティの構築性を尊重する社会へと変化してきたという事実命題であって、「トランス」がことさら自由にジェンダー・アイデンティティや身体を構築していると述べたことはない

3.自由に構築できるアイデンティティなのだから、従来からのシス女性の安全を脅かすような仕方で女性トイレ等の使用を求めるのではなく、トランス女性はトランス女性のスペースをつくり、それぞれの安全を求めればいい。

まったく同意できない。そのようなことは言ったこともないし、むしろそれでよいのか再考するために論文を書いたのである。まったく主張したこともないことが書かれていて、困惑する。

4.それにもかかわらず、トランス活動家はシス女性たちの恐怖を差別意識だと誤認し、それを正そうとしては失敗していらだった挙句に、ときに破壊活動にまで及ぶ。

そのようなことは言ってはいない。差別意識がないとも言っていない。そういう社会問題の立てられ方が、何を帰結するのかについて、警鐘を鳴らしているだけである

最後に

この文章を通して描いた文字数は、6000字ちょっとである。これだけですでに論文依頼の文字数8000字の半分を超えてしまっている。書きたいことはたくさんあったが、紙幅の都合上、割愛しなければならないものは数多くあった。また触れたいのに触れられない文献も数多くあった。

ニューヨークから帰ってきて、すでに夜中の4時を回っている。時差ぼけでよかった、と言いたいが、このような文章を書いていて、本当にいま情けない気持ちでいっぱいである。

私の論文は徹底的に叩いて、今度こそ発言力をなくしたいというようなツイートを見ていると、私に対する批判はどのようなモチベーションから来ているのか、考え込んでしまう。

何が何でも私を「トランス差別的な研究者」に仕立て上げ、黙らせたいのだという素直な心情の発露も結構だが、いったい何を達成したいのだろう。何よりも、研究者までもがこのような誤読をある意味で利用し、そのまま拡散していくことの意味は何だろうか

書かれた論文に対しては、何を言うのも自由である。しかし今回は、「書いたおかげで、研究が深められてよかった」と思わされる批判には、残念ながら何も出会えなかった。普通の場合、研究者は批判は妥当なものであれば、嬉しいものである。

ゆなさんのブログを引用しながら、『現代思想』編集部や編集者に抗議をするという人たちもいたようだが、そもそも「ターフについて書いてくれ」と依頼されたものではない。「ポストフェミニズム」について書こうと思っていたが、私のなかでは、それほど切り口は変わっていない。これらは、まさにポストフェミニズムの事象についての問題である。論文の責任は(論文でも論考でもエッセイでも好きに読んでくれて構わないが)、すべて私に帰するものである。

今回ほど、論文を書く際に相談に乗ってくれた研究仲間が心強いことはなかった。また、掲載された後も多くの励ましをくださった方々、本当にどうもありがとうございました。

いままで出会ってきた多くの学生たち、友人たち、(アウティングになるから言えないが)さまざまなひとたち、各々の顔を思い浮かべながら、みんなが包摂され、安全に暮らすことができる社会が来ることを切に祈っている(2020年2月22日,6時20分)。








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