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雪解け

祖母は、今年で90歳になった。
ずっと「優秀じゃなきゃいけない」ということを私に言い続け、女として生まれたことへの罪悪感を植え付けた人。
そして、祖母の両親の代から受け継がれた梅干しの漬け方や、手料理、女であっても守られることなく強く生きることを教えてくれた人でもある。

今年のクリスマスイブは、家族で食卓を囲んだ。
その帰り、祖母を車で送ることになった。
夜が深まった時間帯に祖母と一緒にいることなんで人生で初めてで、年老いた彼女は普段ほど口数も多くなかった。

「私ももし戦争がなかったら、音楽がやりたかった。」

ぽつりと呟かれた言葉に、心がどうしようもなく締め付けられた。
祖母は台湾で生まれ育ち、戦争によって人生を曲げられてしまった。
とても優秀だった彼女は、戦争さえなければ女医としての道を歩むはずの人だった。

その後の人生も、愛した人と夫婦になったけれど、足りない家計を自分で働いて補ったり、病魔に襲われたり、決して穏やかに生きてきた人ではなかったのだと思う。
強く生きるしか、生きていく術を持たない人だった。


子供の頃、祖母は私の存在を手放しでは喜んでくれていなかった。
私は、祖母の夫が亡くなるのと重なるようにして生まれた。
彼女にとって、私は忌み子だった。
子供ながらに祖母を嫌っていたし、祖母が私が女であることを複雑に思っていることも知っていた。
小学生の頃から「東大に行きなさい」が祖母の口癖で、音楽の道に進むとなった時も、「音楽で食べてなんていけない」と言われた。
受け入れられないことへの悲しさから、ずっと祖母を避けてきた。
祖母の好きなところは、彼女が漬けた梅干しだけだった。

祖母の住む家に向かう途中にある橋に差し掛かった時、祖母は話し始めた。

「今になって思うの。自分の息子たちが幸せで、その子供たちもしっかりと生きてる。それをこの歳になって見ることができて、幸せな人生だった。」

「もう少し若かったら、あなたが活躍するところをもっと見られたのだけが心残りなのよ。けど、もう十分満足してあの世にいける。」

「人生を幸せに生きなさい。」

かすかな、けれどそれはたしかな雪解けの音だった。

彼女は、私をどうしようもないほどに「自立」することに追い込んだ人。
だけど、皮肉なことにその自立こそが私にとっては一番の贈り物になった。
自立することに固執してきたからこそ、私には今がある。
今、私はこの自分の人生を面白がりながら生きることができているから。
子供の頃の痛みを全て洗い流すことはできないけれど、自立の底にある冷え切った悲しみがやっと薄れた瞬間だった。

遺言のようなことを言った祖母だけど、戦争を越え、病を越えてきた彼女のことだ。
100歳を超える勢いで生きるのだろうと信じている。

メリークリスマス、おばあちゃん。





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