見出し画像

アナイス・ニン、夢のなかの女が紡ぐ言葉は海王星の香りがする



 アナイス・ニンという作家にわたしがずっと感じてきた幻影。彼女の言葉を辿るとき彼女の中心から放たれる海王星の気配が香水のように立ちあがり、それを読む者のなかに一滴の残り香をおとしていく。

 その一滴がふとしたときになにげなく浮かびあがってくると、かつての香りが一瞬で希薄になっていた過去を再生するように、アナイスの言葉に耽溺した少女のころを想いだし、そしてわたしのなかに彼女が残した濃霧につつまれた香りを感じる。

 霧に覆われた海王星。

 アナイス・ニンはあの星の住人で、彼女の書物はフレグランスに似ている。

 豪奢に緻密に、そしてエキゾチックに細工をほどこされた香水瓶のなかに秘められた言葉の香りで濃霧を生みだし、それによって視界を曖昧にさせる。幻影、それが彼女の全貌を見つめること、捉えることを阻んでいる。


 彼女の日記の記述は夢の風景を歩いているように紗がかかり、小説はシュルレアリスムの絵のなかを迷うみたいで、彼女自身も“夢のなかの女”としての自分で在ること、そう見られることを望んでいたのだろう意志が感じられ、その強い意志の核から霧の香りが生みだされたことをつたえてくる。

 アナイスが生活や対人関係、過去、感情、そして自分自身に纏わせる霧の存在を、影にかかるベールのように彼女の文章から感じるとき、その霧はすべてに“美”を宿すことを祈る彼女の痛切な意志が生みだした魔法なのだろうと思わずにいられないから。そしてそれは貝のなかで真珠が育まれたような祈りとおなじものでもあることを。


 エキゾチック、という言葉がアナイス・ニンのことを想うときその香りとともにあらわれるのは、彼女に“異邦”を感じるからなのだと思う。どこにいても根源的には“異邦人”だったアナイスが、そのために内部で結晶化させた言葉で夢の庭や美しい城を構築したこと。現実には存在しないその場所はいつも霧がかっていて、けれどもそれがかえって現実よりも現実に近い場所として読み手のなかにある扉へと通じ、それを開くこと。

 遠くを見ようとすると見えない、目に映るのは近くや足もとだけで、だけどそのために、それだからこそ捉えられない遠くを見ようとして霧で覆われた場所に目を凝らそうとする。目に映るところを視ようとしない。見えないところになにがあるかが見えているものよりも重要なことのように感じられる。アナイスが謎めいて見えるのは、そういった霧を自分自身に纏わせていたから。

 見えているものを軽く見ようとして、見えていないものを重く見ようとする。それはとても現実を生きる人間らしいことで、霧がかかっているのは夢のなかだけとはかぎらない。現実にいながらそうとは知らずとても深い霧を彷徨っていることもある。そしてアナイスはそのような漂泊のなかに“美”を宿すことを願ったひとなのだと思う。


 孤独な少女時代のなかで父親に“裏切られた”事実を抹殺するために、遠く隔たれた父に宛てた手紙として綴りはじめた日記は、「この“現実”を受けいれられない」という悲しみと憐憫を痛ましい“夢”に結晶化するためのものだった。その“夢”に入り込みさえすれば、星だって冠にできる。

 日記を自分の“ダイナマイト”だと表現し、綴れない日がつづくと麻薬が切れたみたいに落ち着かなかったという彼女は、そのなかに自身の“秘密”を閉ざしている、封じこめていることを“外”にむけて示唆すること(「ここにはわたしがあなたにも打ち明けていない“秘密”が書かれてあるのよ」)で、“現実”を“夢”に変換するための装置としての“鍵”の役割をその幼少期から日記に託していた。そのようにして異邦人であることの孤独を少女は慰めようとし、精神の安定をはかっていた。

 夢、麻薬、鏡。それはすべて彼女にとっての“日記”のこと。


 “夢のなかの女”であることは、おそらく“永遠の女性”であることでもあった。

 アナイスにファムファタル的なところはなかった、みたいなことをさも重要な話のようにいわれたりするけど、彼女がなりたかったのは“運命の女”ではなく“永遠の女性”だったのだろうから、それはそうだろうなと思う。

 彼女が海王星の香りを纏わせながらなめらかな独楽みたいに回転して人々に近づき、羽毛のような笑い声とその香で魅了したのち遠ざかるのは、その関係の生々しい現実のなかに夢や美を見いだせなくなったとき、相手に自分のなかの“一滴”をあげたくてもあげられなくなってしまうからなのではないかと感じられる。だから「もう一滴もあげられない」と感じるよりまえに、その予感の段階から、苦痛がかたちをとりはじめるよりさきにアナイスは少しずつ終焉の準備をはじめる。彼女が願う堅牢な美への祈りがその関係の最後まで遂行され、そこから夢を紡げなくなるまえに、それを終わらせる。

 そしてすべてを言葉のなかで夢と美に変貌させる。それは異邦人がみずからの心に存在する星に捧げるために生みだされた錬金術。


 アナイス・ニンは濃霧のように海王星の香りのするひと。


画像1




サポートありがとうございます* 花やお菓子や書物、心を豊かにすることに使わせていただきます*