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聖女になるしか、みちはない――多和田葉子『聖女伝説』


2016.3


 少女が「女」になることなく、儚くいのちを散らすこと。蕾のまま迎えた「死」を、満開の花よりもうつくしいもののように魅せること。その閉ざされた蕾につらなる少女たちの眷属を、「オフィーリアの系譜」と呼んだりするらしい。

 少女がいずれは葬られる生き物だからこそ美しい、という理論は理解できる。それが現実の「死」を意味しているのではなくても、どんな少女もいつかは時間によって殺される。

 だからわたしたちは、一瞬のなかに宿った彼女たちのあえかな羽ばたきに目を奪われる。そしてその一瞬がいつまでも輝く永遠となることを望んだりする。

 けれども「永遠」という言葉ほど残酷なものはなく、それは少女という亡骸を美しい死として埋葬し、彼女たちをガラスの棺のなかの標本として封じこめてしまうということでもある。無垢なるものを無垢なるまま保管しておこうとする、時間をゆがませて保とうとするその意志に、闇のなかでかがやく蜂蜜色のごとき蠱惑的で濃密な昏い灯りを視て、みずから標本となることを望む少女もいる。そしてそれならば、その反対に標本になんてなりたくないという意志をもつ少女がいても、まったく不思議なことではない。

 多和田葉子の『聖女伝説』には、「美しい死」を拒んだ少女の物語が綴られている。

 母にはなりたくない。けれども少女にも戻れない。それならどうすればいいのか。――聖女になるしか、みちはない。

 “女は女に生まれるのではなく、女になるのだ。”というあの無情な宣告。

 それが生まれた意味であり、自分の性が命じる未来だとしても、「母」になることだけは、どうあっても回避したい。そう願っていた決意もむなしく肉体は望まぬかたちに変化し、少女と呼ばれるひとときののちの刃の痛みを跨いで、「女」になろうとしている。

 何者でもない限られた時間の終わりに、おのれにつけられた符号にしたがって、誰もが「少女」を殺めてゆく。そんな無数の「死体」のひとつとして埋没されてしまうこと。それを拒んで彼女は落下する。突きつけられる地面という現実をまえに、迫りくる「死」を回避することを祈り、時間をとめた。

 それが一時的な停止に過ぎなくても。

 なにも選択しないことによって「聖女」になることを選択した「少女」。

 研ぎ澄まされた文章、驚異的な感性、不穏の物語。もしもこの書物に十四歳のときに出逢っていたら、わたしの精神は書物によって喰い破られてしまったに違いないと感じるほどに、生と性と聖が描かれたこの物語に、いまをもって切実さを感じてしまう。

 少女は言語でしか世界と戦えない。

 それは護身用のナイフみたいに大切なものだ。たぶん、わたしにとっても。



 これは遡ると2016年のわたしが記した言葉のようです。“聖女になるしか、みちはない”という題をつけたこの文に、いまでも肯けるところもあれば否と感じる部分もあり、そのことにこれを綴ったあとに砂時計の砂みたいに降り積もった時間のなかから、わたしのなかで留まらず零れていった砂の欠片、断片を想ったりもします。おのれから零れていった砂があるならば、それがいつでもそのときの、そしていまの自分にとって最良であったことを。

 なぜこの文をあらためてここに遺しておこうと思ったのかは、先日過去に「わたしの本棚に5冊しか入らないとしたら」という主題でつぶやいたわたし自身のtweetと再会し、本書の題名があって、不意に想起されるものがあったからです。



 いまも本棚に背表紙をならべているこの物語をはじめて読んだのはずいぶんまえのことですが、そこには頁番号が記されておらず、それがこの書物のイマジネーションの喚起、霊性みたいなものと繋がるための作用を果たしていると感じたものだけれど、“神の秩序を乱すこと”だから聖書にも頁番号がなかったことがあったとのちに知って、それを模していたのだと感じたりしました。


 剣がモチーフにされた香水瓶を、おまもりみたいに書物に添えて。

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