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『悩みの本質』って

こんな文章があった。

悩むとは、主観的に物事を捉えるという、不確実なものの見方によって生じる不快な心理現状といえます。
つまり、悩みとは個人の思い込みにより創作されたもので、実態はありません。悩み事の本質に気づくことができれば、早々に解決されていくものです。

主観的に物事を捉えるという、不確実な物の見方って・・・。

誰かの話を聞きながら、もしかしたら、その悩み自体が架空の世界の出来事なんじゃないかしら?と感じる時がある。
もちろん、言わないし、言えないけれど。

「もし、そんなことになったら私・・・。」

「もし」はまだ起きていない。
でも、その人が考える「もし」は、小説家すら考えつかないような結末を導き出したりする。
事実は小説よりも奇なり。
でもない。
フィクションだ。
あまりに見事で、不謹慎ではあるが、重い話なのに感心して聞いてしまう。


主観と客観、主体と客体といった見方は「二元的」や「相対的」と表現されますが、私たちが住む世界はまさに、二元の世界といえます。
まさに、悩みとはこのことで、個人と他人というように、存在一人ひとりが自由意志を持ち、「独立した存在」として生きているところに悩みの原因があります。
「独立した存在」とは自分という存在であり、自分の体そのものです。
自分と他人、自分と環境、自分と世界、というように二元に分かれていると、自己意識は常に「自分」の身を守ることを最優先し、選択や判断をする時にはいつどんな瞬間にでも自己防衛を前提とした思考が働きます。(波動で紐解く出来事のカラクリ)


自己防衛を前提とした思考が働く・・・まさに、そうだ。

以前、その逆はワンネスなんだ、と聞いたような気がした。
それは、愛に満ちあふれた世界。
調和した「今」を感じて生きている世界。

もし、傷つくことから自分自身を守ることに使う熱量を使わなかったら、ものすごく楽なんじゃないかしら。
でも、誰もが傷つきたくなくて、本質的なことを避けて伝えようとしてしまう。
もしくは、口をつぐんでしまうのだろう。

たとえば、一人ひとりが同じ概念、同じ理想を持ち、意思の疎通のとれた関係であれば、個人という自由意志がなくなるため、悩みは生じないのですが、現実はそのようなことにならないところに真理が現れているようです。


素直に頷いてしまう。
「自由意志」というとても大切なものが、実は、悩みの原因にもなるとは。
みんな同じじゃないから、わかってもらおうとして受け入れられないと傷ついてしまう。

人間関係での悩みというのは、個人が自己の心理に気づき、愛の本質を学ぶため、つまり、必要性があって起きているのです。


人と人との境界線は難しいと、いつも思う。

でも、摩擦があったとしても、「あるがまま」を信じていることは大事なんだな。
「もし」はまだ、起きていないこと。
そして、起きてしまったことから自分を守りたくて、苦しくなるのだと理解していると、ちょっと気持ちが楽になるような気がする。


書くこと、描くことを続けていきたいと思います。