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マイノリティはグラデーション

「個性ある性格」
「枠を無視した作品」
「ルールをアレンジした遊び方」

幼稚園の連絡帳や小学校の成績表に書かれたことのある単語だ。これだけ聞くと、どこかの天才や成功者の幼少期の話かと思うかもしれない。でも私はそこそこ名の知れた会社に勤めるサラリーマンで、一児の母で、特別高収入なわけでもなければ奇抜な髪型もしていない、ごくごく普通の30代女性である。

でも確かに小さい頃は、幼稚園で流行っていた数え歌の替え歌を作ったり、みんなが必死にお手本を見ながら鶴を折っていた横で折り紙をくるくる円錐に丸めて3Dのアイスクリームを作ったりと、クセのある遊び方をしていた。そんな私に対して母は、否定したり正そうとすることはせず(かと言って特別肯定された記憶もないが)、私は人と違うことをやるのは良いこと、お手本どおりにやる必要なんてない、と思って育った。

小学校に上がった時、図工の時間でランタン作りがあった(ドイツにある学校だったので、毎年11月のマルチン祭に向けてランタンを作る)。クッキングペーパーみたいな素材の紙をクレヨンで塗って、最後に先生が円筒状に留めて完成する。中にロウソクを入れて灯すので、クレヨンはムラなく丁寧に塗った方がキレイに仕上がる。しかし私は特に気にすることなく、好きな色を好きなように塗った。担任に提出すると「塗り方が雑ねぇ」と言われた。家に帰って母に「雑ってどういう意味?」と聞いて初めて、自分の作品は良くなかったんだ、と理解した。

翌年のランタン作りは難易度が上がり、黒い画用紙をカッターで切り抜いてセロハンを貼る工程だった。その時はドイツらしさを表したくてプレッツェル型に切ったのだが、色彩的にに映えない上に私の切り方が下手だったこともあり、図工の先生からのコメントは「よく分からない作品」だった。

その後も、粘土工作では高く高く作りすぎて「棚に収まらない」と言われたり、版画では「テーマから少しズレた作品」等と、今思えば結構辛辣な評価を受けることがあった。それでも不思議と一度たりとも、自分はダメなんだ等と思うことなく、「他の人たちがやらないことを思いつく個性的な性格なのだ」という肯定的な自己認識をしていた。

でも振り返って考えてみると「他の人たちと違う」「個性的」というのは一部の天才とその他枠からはみ出る不器用者や偏屈者のひっくるめた言葉であり、私は圧倒的に後者である。ここ数年LGBTがフォーカスされることが増え、合わせて「マイノリティ」という言葉がメジャーになった。個性的もマイノリティも「世の大半とは異なる何かを持ったもの」と解釈すればプラスなものになるが、「異質」の一言で突き放すことだってできる。みんなが揃って手拍子する中、1人全く新しいリズムを刻めば天才と崇められるが、全体から半拍ズレているとただのはみ出しものに過ぎない。

では、いわゆる天才や成功者ではない個性の強い人やマイノリティに価値はないのかと言うとそれは違う。一部の天才以外が右向け右で常に同じリズムを刻んでいては、世界から彩りが失われるし、面白味も奥行きも生まれない。そして何より全てにおいてマイノリティな人間なんているわけがない。

私は確かにジブリは嫌いだし、デートでディズニーランドに連れて行かれたくないし、オイシックスのミールキットはレシピを捨てて限られた材料で如何に美味しいものが作れるかチャレンジするマイノリティである。でも桜は美しいと感じるし、彼氏に花束をもらったら嬉しいし、買ったばかりの家電は取扱説明書の手順に沿って設定するマジョリティでもある。

全てにおいてマイノリティな人間はいないし、多かれ少なかれみなマイノリティである。その度合いが高ければ「個性的」と言われるし、逆に没個性でも「つまらない」と言われる。人間誰しもマジョリティでありマイノリティであるという自覚を持てば、世界はもっと生きやすくなるのでは、と思う。

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