【小説】やっと結婚できたと思ったら妻は家事をしない怒る女だった #18
翌日、私は朝から仕事が手につかなかった。デスクに座っていても心は別のところにあり、
「田島さん・・・電話です・・・・二番に電話・・・」
社内の方々から飛んでくるそんな事務的な声にも上の空だった。たまらず竹田が話しかけてきた。
「田島さん、どうしたんです? ぼんやりしちゃって。今日は朝からおかしいですよ」
「何でもないよ。ちょっと体調がよくないんだ」
「飲み過ぎですか?」
「生活の疲れだよ」
「へえェ、薔薇色の生活でも疲れることがあるんだ」
「どぶだよ」
「えっ?」
「薔薇じゃない。内はどぶ色だよ・・・」
「またそんなこと言ってェ。奥さんと喧嘩でもしたんですか?」
「まあ・・・そんなところだ」
「田島さんでも遣りあうんですね」
「結婚するとな、いろいろあるんだよ・・・性格も変わるさ」
私はこの竹田が妻帯者であったらと思った。しかし、結婚生活を体験していない者に、とても私の鬱憤を打ち明けられなかった。夜の街でも、昼休みの喫茶店でも、どこでもいい。私は女房に対する共通の悩みなり不満を持つ者と、愚痴のこぼしあいをしたかった。ざっくばらんに女房の罪状を公開して、相手を驚かし、
「まいったな。田島の方が俺よりよっぽど悲惨じゃないか。それじゃあ別れるというのも無理ないよ。微力ながらそうなった時はおまえの力になってやるよ」
そんな同情の言葉を一言でもかけてもらいたかった。
しかし、おっぱいの大きな才媛と結婚し、今は一児の父となった西村にしても、大岡にしても、楠木にしても、荒谷にしても、私の回りにいるやつはみんな素晴らしい良妻を持っているのだ。彼らが細君の悪口を言ったところで、私は天使と暮らしているとしか思えないだろう。天使と戯れているやつらに、凶暴な魔女と暮らしている私の気持ちなど理解できっこないのだ。かと言って・・・私は隣のデスクのブロックにいる山崎桃子に目を向けた。彼女は妄想の乳房をブラウスの下に隠し、例の太い指で黙々とコンピュータのキーを叩いていた。桃子なら・・・彼女と静かなバーで二人きりになれたなら、きっと私の求めているやすらぎを与えてくれるだろう。しかし、私がそう思った時、すでに結果は出ていたのだ。私が彼女を誘えないという・・・結果が・・・。
この朝、いつもより早く出社をすると、私は給湯室にいた桃子に後ろから声をかけた。
「ちょっと水を飲ませてくれないか」
「あら、おはようございます。今日は早いんですね」
「ああ、ちょっとタマッテいるんだ(フマンが!)」
その時、給湯室には桃子しかいなかった。神がくれたチャンス、ではない。桃子をバーに誘おうと、布団の中で思い練った作戦通りの時間と場所だった。しかし、勝負は一瞬で決まった。
「はい、どうぞ」
グラスに水を注ぐと、桃子ははっきりと見た。私の企んだ目を。眼窩におどおどと潜む私の瞳が、ハッと驚いた。
「・・・あ、ありがとう」
桃子は私の心に微笑み、給湯室を出て行った。
舌の上の滑走路で言葉が飛び出す用意をしていたのに、私は桃子を誘えなかった。涼子への後ろめたさでも、怖じ気づいたわけでもない。その時の一瞬の気持ちをどう説明したらわかってもらえるだろう。
何かの気配を感じ、私を直視した桃子は、私の妄想よりもずっときれいだった。眉毛はまるで魂があるように生き生きと描かれ、白目に浮かぶ眼球は水の惑星のように清く潤っていた。顔の中心に聳えるたっぷりとした肉の盛り上がりは形のよい鼻孔を作り、その下に薄く刻まれた唇は白い歯を隠してもなお博愛に満ちていた。生毛も、皹割れもなく、髪の生え際から顎の先端まで顔の表面は滑らかに手入れされ、じっと見ていると吸い込まれそうなほど透き通っていた。その美しさは頭の箱の中に逃げ込んでいた私を一喝し、現実に呼び戻した。そのとたんに、桃子が遠い幻になってしまったのだ。赤くときめいていた心が真っ白に静寂し、私は瞬時にやるせなくなった。
私はきれいな星を眺めるように桃子を見てきた。しかし、その桃子という星が遠くで、遠くで、ずっと遠くで輝いているんだと、この時ほど痛切に感じたことはない。昨日まですぐそこにいたのに、想像上の愛妻だったのに、それが現実の心で対峙し、強い眼差しで見つめたとたん、遠い、遠い、遠い、本当に遠い女になってしまったのだ。
一度でも結婚という傷を持った男には、もう触ることのできない、いや絶対に触っちゃいけない女。心のどこかで人生を後悔させ、時を逆戻りさせる魔法があったらと思わせる存在。私には彼女を束縛する権利も資格もなく、
「僕はずっと君のことを思っていたんだよ。僕たちは頭の中で夫婦だったんだよ」
大きな声で気を引こうとしても、虚しい譫言になるだけのような気がした。
女性なのに五月人形のような美しさを持った桃子を悶々と鑑賞しながら、私はつくづく思った。結婚すれば、桃子はきっといい奥さんになるだろう。優しいし、気が利くし、がんばりやだし、生活感があるし、指が太いし・・・。
あああ、だけど、だけど、そんなことはもうどうでもいいことだ! 私は自分の妻と生きていかねばならないのだから。
別れても、別れなくても!
夜九時過ぎに会社を出ると、私は地下鉄への階段を降りた。東西線に乗れば大通から西28丁目駅まで八、九分で着くが、地下のトンネルの向こうに偽りのスイートホームが待ち受けていると思うと、このまま真直ぐマンションへ帰る気にはなれなかった。人の流れに逆らって再び地上に出ると、私は南一条通りの交差点を渡り、何かから逃げるようにすすきの方面へ足を動かした。舗道で擦れ違うカップルやショップのディスプレイが小さな穴から覗いているように過ぎてゆき、耳に入る車のクラクションも遠い世界で鳴っているように聞こえた。ぼんやりとした意識の中に桃子と涼子の姿が交互に現われ、どちらかを強く脳裏に刻もうとすると、どちらもすぐに頭から剥れていった。
通りをしばらく進むと、私は狸小路に入り、西へ向かってアーケードを歩いた。まるで雨のぬかるみに足が嵌ったように、心がずっしり重かった。
桃子が定時に帰ってしまうと、私はもやもやとした心をデスクの電話に向けた。九時まで会社にいたのは、仕事があったからではない。「今夜は帰るのが遅くなる」と、涼子に電話をしようかするまいかで、ずっと迷っていたのだ。しないと決断し、会社をあとにした時は自分の勇気を称えたが、時が一秒たつごとに罪を犯した人間のように、私は不安な気持ちになった。電話もせず、夜の街をふらついているのは、腹を空かしている涼子への残酷な裏切り行為で、涼子はきっと怒っているだろうなと思った
私は桃子を誘わなかった。だけど・・・どっちみち・・・どっちみち離婚へまっしぐらだ。
狸小路のアーケードが途切れると、あとは信号機に従ってひたすら西を目指したわけだが、どう進もうと全ての道は西28丁目駅より徒歩5分にある、「甘さ」の欠片もない偽りのスイートホームへ続いているように思えた。
時間をかせぐために西二十丁目界隈で喫茶店に入ったことを覚えている。そこでビールの小瓶を二本飲み、煙草を吸った。眼鏡を掛けたマスターと鼻の大きなウエイトレスがカウンターで話しをしていて、客は最初から最後まで私一人しかいなかった。
「どうしたんです。こんなところでひとりぼっちになって。何か悲しいことでもあったんですか?」
ウエイトレスがやって来て、そんな温かな言葉をかけてきたら、私はわっと泣き出していただろう。針で突っつけば膿がぴゅっと飛び出す腫れ物みたいに、涙の袋が目の中で今にも破裂しそうだった。だが、彼女が私に言ったのは、
「あのう、もう閉店なんですけど」
ああ、どうして。どうして、涙の見せ場を与えてくれないのだァ! 泣けば何かが、何かが解決できるかもしれないのにィ!
後退りしたがる体を前に動かし、私はマンションのすぐそばの道を歩いた。私は電話をかけなかった。
・・・ああ、叱られる・・・それとも、いきなりサヨナラだろうか。
怒って、夜遊びに出掛けたのならその方が気がらくだった。別れ話のあとで、一つのベッドに潜り込む気にはなれないからだ。
鍵を開けると、明かりがついていた。玄関先で、「おやっ」と思った。尖った気配を少しも感じなかったからだ。溢れる空気も怒りの鼻息で満たしたものではなく、何事もなかったように、穏やかに私を取り囲んでいた。
中に入ると、リビングの床にトイレットペーパーのセットが放り置かれ、穴の開いた袋からロールが一つ抜き取られていた。テーブルにはカップラーメンの器がのっていて、残したスープの中に割箸が突っ込んであった。私はそれを片付けると、テーブルを濡れタオルで拭き、椅子に座って一服した。そうして頭の中を空っぽにしてから立ち上がり、もう一つの部屋の襖をそっと開いた。
涼子は眠っていた。 本を読んでいるうちに睡魔に襲われたのか、天井のライトはつけっ放しで、ベッドの下に漫画の本が落ちていた。寝相が悪く、パジャマのボタンがしっかり止めてある胸のあたりまで掛布団がずり下がっていた。両腕、両足を思いっきり広げ、私の入る隙間もなく、ダブルベッドを占領していた。眠っていても性格通りの妻だった。私は涼子が出て行きも夜遊びもせず、ちゃんと家にいたことを不思議に思った。私は涼子への警戒を緩めず、しばらく睨んでいた。が、睨みが観察する目に変わり、その目が川の流れを見渡すように、涼子の剥き出した上半身から布団の先に咲いている足の爪までゆっくり動いた。その偏平な足の裏を擽ってやりたい、そんな衝動にかられた時、私の目は笑っていたと思う。そして、時折ほっぺをぽりぽりと掻き、赤ん坊のように健気に眠っている涼子が、実に可愛らしい生き物のように思えてきた。それからうれしくなり、明るい気持ちが蘇ってくると、私は背広を着たままベッドに飛び込み、布団の上から強く、強く涼子を抱き締めた。
「涼ちゃん、帰ってきたよォ!」
私は涼子の鼻をぺろぺろと嘗めた。木の実を微かにこじ開けたようなま目蓋の間に、とろんとした瞳が現われた。
「・・・うーん、今日は眠いのぉ・・・」
涼子の瞳は睫毛の陰に見え隠れし、再び瞼の奥に収まろうとしたが、私は舌の先で閉まるのを食い止めた。
「おちゃけくちゃーい!」
「はあはあ」
「真ちゃん、おちゃけくちゃーい!」
「はあはあ」
涼子の顔に息を吹き掛けながら、私は涼子の喉を擽った。「ごろごろ、ごろごろ」涼子の寝惚けた、甘い声が私の耳に快く響いた。お天気屋の憎い、憎い涼子だったが、抱き締めると体中の骨を感じるほど細く、女のか弱さを感じた。
私がこの涼子を理解し、大きな心で包み込んであげなければ、いったい誰が涼子の面倒をみると言うのだろう。いったい誰が涼子のわがままを許すと言うのだろう。私には最初からこの涼子しかいなかったのだ。涼子に出会った時から今の今まで・・・。私は結婚に対する期待や理想といたものをいっさい捨てよう。そして、生涯この妻の忠実な夫になろう。涼子を両手で抱き締めながら、私はそう決意したのだった。
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