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【小説】やっと結婚できたと思ったら妻は家事をしない怒る女だった #16

 新婚時代より二十年近くも昔の話になるが、倶知安に住む母方の祖母が病気で倒れた時、母が看病のため病院に何日も寝泊りをしたことがあった。その時、家事を切り盛りしていたのは姉だった。姉は中学三年生だったが、食事の支度から掃除、洗濯、父や弟の私の世話まで当然の顔でやっていた。私は母にしろ姉にしろ、女の仕事を当たり前にこなす、そんな立派な女達を見て育ってきたわけだ。ところが私と結婚した妻は、りんごの皮すら満足に剥けない、困った女だった。私が女に対して抱いていたものが、こうだと決めつけていた姿が、涼子によって根本から覆されてしまった。

 選んだ女が悪かった、私の結婚は失敗だったと、どんなに嘆いたことだろう。だが、新しい年が始まってから何か吹っ切れたように私の気持ちも微妙に変化をしだした。朝の出掛けに涼子が眠っていても、憎しみを持たなくなった。妻とはそういうものだと割り切り始めたからだろうか。極たまに涼子がむっくり起きてくると、朝の平穏な時間が奪われたようで、むしろ涼子を邪魔に思うようになった。

 その一方で、山崎桃子との甘い結婚生活を私はますます脳裏に浮かべるようになった。目を瞑るたびに、まぶたの裏からぬうっと桃子が、桃子のいる家庭が現われた。そこは私にとって唯一心のやすまる世界であり、理想の結婚生活を実践する架空のステージになった。しかし、最初は日常の暮らしの中にいたのに、桃子は次第に淫猥な裸婦になり、バスト八十八センチの仮想の乳房をぶるるるんと揺らし始めたのだ。

 私は浮かべた。例えば、朝起こされる場面とか・・・

 「さあ、しんちゃん、あさですよぉ」桃子が私を起こす。その甘い声で快く目覚めたが、私はベッドで眠ったふりをしている。「はやくおきて、ごはんをたべないと、かいしゃに、おくれちゃうよぉ」私はまだ両目を閉じたままだ。「しんちゃん、てばぁ」ぐうぐうと嘘の鼾をかいて起きる素振りをみせない。意地悪をしているのではない。まぶたにキスをしてくれなきゃ、まぶたの重い扉が開かないのだ。桃子はそんな朝の挨拶の仕方を知っていた。「ちゅ!」

 私はコーヒーカップに指を引っ掛けたまま、朝食を終えたテーブルから折り戸を半分開いた六畳間に目を向けていた。涼子はまだ眠っていた。暑苦しいのかブランケットをベッドの下に蹴落とし、パジャマのズボンが膝まで捲れた左脚を掛布団の上にどかっと載せていた。私は一度も涼子に起こされたことがない。七時になったら携帯のアラームが鳴るだけだ。生の言葉で、ワイフの声で起こされるって、いったいどんな感じなんだろう。

 私はさらに浮かべた。例えば、会社から帰ってきた時の夫婦の会話とか・・・

 ほっぺに、お帰りのキスをくれると、桃子が言った。「おへやを、よおくみて。あさとかわったところが、なあい?」私はすぐに気がついた。「ばらのはなを、かざったね?」「あったりぃ!」「どうしたんだい? はななんかかざって」「だってきょうは、わたしたちの、じゅっかげつめの、けっこんきねんびじゃない。ごちそうだって、いっしょうけんめいに、つくったのよ。それに、ほら、てーぶるをみて。しんちゃんのだあいすきな、あっぷるぱいもやいたのよ」

 私は流しの前で、顎を横に振った。そんなありえない想像より、現実の夕飯だ。私はしゃもじを口の前に持ってくると、ふうっと冷まし、味噌汁の味見をした。

 浮かべようとしなくても、思わず浮かんでしまう妄想もあった。例えば、これから風呂に入るシーンとか・・・

「ぱじゃまとしたぎを、せんめんしつにおいといたわ」「ももちゃんも、いっしょに、はいろうよぉ」「だーめ」「どおしてぇ?」「だって、しんちゃんは、すぐ、さわるんだもの」「ももちゃんを、あらってあげたいんだよぉ」「ほんとに、あらうだけ?」「うん」「じゃ、ももちゃんも、はいる。しんちゃん、わたしをきれいにしてね」・・・そんな夢のような場面が頭の中に現われたのは、押入にある私の下着箱を開いた時だ。

「もう着替えのパンツがないんだけど・・・」

 私はテーブルで爪の手入れをしている、湯上がりの涼子に訴えた。しかし、男が情けない声を出しても、この涼子には通じない。

「どうして風呂に入る時になって言うのよォ! 着替えの下着がないんなら、前もってちゃんと言ってよォ、洗濯くらいしてやったのにィ!」

「・・・わかった。同じパンツで、我慢するよ」

 洗面室に入ると、私は洗濯機の蓋をちょっと開いた。汚れ物がうんざりするほど溜っていて、アンモニアやら香水の混じった臭いがむうっと鼻についた。結局、洗濯も、私がしなければいけないということか。私のパンツも、妻のパンティーも! 

 ああ、風呂から上がったあとに、おしっこの黄色い染みのついた生温かなブリーフなんてはきたくない! 

 これじゃあはかない方がまだましだ! 私はパンツを脱ぐと、洗濯機の中に放り込んだ。

 ごく普通の新婚夫婦には当り前の暮らしが、私には想像の世界でしか味わえなかった。理想のスイートホームへの憧憬がシャボン玉となって頭の中に浮かび、尖った現実にぱちんと弾けても、私はさらに新しい夢を膨らませた。ところが、風呂のシーンが現われた時から桃子は日常の暮らしから完全に離れ、エプロンを取り、スカートやブラウスを脱ぎ捨て、ブラジャーやパンティーまで取って私を誘惑し始めたのだ。

 昼間の太陽を浴びている時はあんなにも明るく、貞淑で、可憐なのに、窓のカーテンを閉じたり、星々が暗い夜を連れてくると、桃子は淫な激しい女になった。私は彼女を真っ裸にして膝の上に抱っこをすると唇とべろと指で体中を撫で回した。そして、はっ、はっと喘ぎあいながら、何度も何度も愛しあった。

「もっと、もっと。はっ、はっ」

「ももちゃんも、すきだなあ。はっ、はっ」

「やめちゃあいやあん。もっと、もっと、いっぱいしてほしいの。はっ、はっ」

 家にいても、会社にいても、どこでも。「この書類を三時まで打ってくれないか」と仕事の顔で面と向かっても。おはようと気持ちのいい挨拶を交わした朝も。裸の桃子が頭にこびりついて離れなかった。拭っても、拭っても、拭っても、イッシモマトワヌ桃子が浮かんでしまううう!・・・乳房の形は? 乳首の色は? 触らせてくれ。見せてくれ。想像通りか確かめたいんだ。もう誰かにしゃぶられたのか? おまえみたいによく気が利く女でも、やっぱりセックスをするのか? するんだな。いつしたんだ? 昨日か? 一昨日か? 先週の土曜の夜か? どこでしたんだ? 何回したんだ? どんな体位でやったんだ? 正常位か? 後背位か? 臀の穴を男に向けたのか? 股を男に開いたのか? 男のものを、その可愛い口でくわえたのか? な、なんて、なんて、羨ましい男なんだ、そいつはァ! どうなんだ。聞かせてくれ。俺はおまえの秘密を知りたいんだ。全てを。今まで何人の男と寝たんだ? 初めての時は何歳で、相手は誰だったんだ? いい気持ちだったのか? 最初の時も、あっ、あっ、あっと、よがり声を出したのか? もっと、もっと、もっと、とねだったのか? 知りたいんだ、たまらなく知りたいだ。俺だけに、俺だけに、こそっり、教えてくれ。誰にも、誰にも、もちろん妻にも、しゃべらないからああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!


【小説】やっと結婚できたと思ったら妻は家事をしない怒る女だった #17へ続く

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