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【小説】やっと結婚できたと思ったら妻は家事をしない怒る女だった #10

 桃子は私の職場の看板娘で、切れ長の二重の目とハーフのような幅の細い鼻を持った、ショートカットの女だった。裾をざっくり短く刈り、きれいな左右の耳の全形を晒したそのヘアースタイルは、汗と根性と青春の体育系女子の爽やかさがあった。
 挨拶がきちんとできる気が利く女で、上司からも同僚からも愛されていた。化粧っ気がなくても輝きがあり、私も前からいい子だなと思っていたが、恋愛の対象というより、職場の花のイメージが強かった。

 ずいぶん前の話だが竹田が気軽に誘って、会社の仲間と飲みに行った時、私は隣にいた桃子の顔を観察したことがある。頬から顎にかけてほんのりアルコールに染まった皮膚の表面に、胡椒の粒のようなほくろがいくつかあることに気がついた。しかし、それは決して私の採点のマイナスポイントにはならず、むしろ間近で見ても醜さが拡大されない、顔の部品の一つ一つの造りの良さに感心をしたものだった。

 涼子と出会う二年前、桃子が入社をした年だったから、私が桃子に恋心を抱いていたらどう人生が転んでいたかわからない。が、彼女の良さを認めながらもどうしても自分のものにしたいという独占欲は涌かなかった。桃子の指が男性的で、理想とはかけ離れていたからだ。もっと若い頃スポーツで鍛えていたからだろうか、硬そうな肉がたっぷりついた掌から伸びるその指にはしなやかさはなく、むしろ骨太で、先っぽに並ぶ爪も短く円く切っていた。ビールのジョッキをしっかりつかむ指を見て、私は手を繋いだ時の感触を想像したが、シャンプーをいじっているような女らしい手の柔らかさを桃子からは感じられないだろうと思った。ただ実用性、器用性といったものは感じた。

 皮肉にも涼子と暮らすようになってからその指へのわだかまりが解けてきた。結婚生活に、細い指など何の役にも立たないことがわかった。必要なのは、桃子のような指なのだ。包丁でちょっと切っても、ぎゃあぎゃあ喚き散らさない太く逞しい指なのだ。ああそれに、彼女のような優しさも家庭にはあったほうがいいと思った。

 そう桃子は優しかった。涼子と冷戦状態になるずっと前から優しかった。昼休みに一緒にそばを食べに行った時、何も言わなくたって七味唐辛子を私の前に置いてくれた。スーツのボタンが取れかかっているのに気がついて、即座に、まるで魔法のような早業でつけ直してくれた。毎朝、「おはようございます」と気持ちのいい挨拶と笑顔で迎えてくれる。そんな日常の優しい、自然な行為の一つ一つが私をほろりとさせるようになった。

 ああ、なんていい子なんだ。どうしてそんなに優しいんだ。どうしてそんなに気がつくんだ。どうしてそんなに俺をじーんと涙脆くさせるんだ。それが当り前なのか。女だから当然なのか。女だから、女だから、女だからか。じゃあ俺の妻は、あれはいったいなんなんだ? 男か? 男だったら、嫁さんはきっと苦労するぞォ! 亭主の俺でさえ、こんなに苦労がたえないのだから。涼子と一緒に暮らしてから、俺ははっきり言って、シャンプーやブラッシングが怖くなった。毛が、わさっと抜けるのだ。前よりも、いっぱい抜けるのだ。ああ、透けた頭なんて、桃子には見せたくない。涼子に「あ、禿げてる!」と言われても、桃子には、桃子だけには。・・・

 俺は桃子に恋をし始めているのだろうか?

 と考えてはみても、私は桃子に接近するわけでもなかった。ただやすらぎを求めて会社で眺めているだけだった。涼子と結婚する前から桃子を知っているわけだから、縁があれば桃子の方と結ばれていただろう。私の桃子へのときめきは、少年の恋のように純粋で、彼女を心に閉じ込めておくだけで喜びや幸せな気持ちが涌いてくる。そんな一人で楽しむだけの危険のない感情だった。私は涼子がヒステリックに吠えるたびに、ベッドで桃子を浮かべた。それが涼子への私のささやかな反発と抵抗になった。

 涼子が朝帰りをした日から二週間ばかりたった。結婚してから、何度か口をきかない日はあったが、それも二、三日のことで、これほど口を尖らせた状態が続いたのは初めてだった。脱ぎっ放し、置きっ放しの涼子だから、私が片付けないと部屋の中は荒れ放題だ。涼子と無言の戦闘が始まってまもなく、ベッドに入ると手が何かをつかんだことを思い出す。それを布団から引っ張り出すと、マーガリンが塗ってあるトーストの切れ端だった。私は見た目にも、精神的にも荒れ狂った家庭に、もう平和は訪れないと思った。しかし、希望の朝はやって来るものだ。もっとも我が家では、朝は涼子が眠っているので、希望がやって来たのは夜だったが・・・。

 その夜、マンションに帰ると、油っこい煙が玄関までたち込めていた。涼子がキッチンにいて、秋刀魚を焼いていたのだ。涼子もやっと私と仲直りをする気になったらしい。

「今日は私が作るから、田島さんは何もしなくていいわ」

 多少はにかみながら、明るい声で涼子は言った。私はそんな言葉よりも、流しの前に涼子が立っているのを見ただけで、胸が熱くなるのを覚えた。

「ああ、ありがとう」

 私はさりげなく換気扇のスイッチを押し、ガスの火を弱くした。我が家には魚焼き専用のグリルはなく、涼子は普通の網で魚を焼いていたのだ。秋刀魚の油がじゅじゅと滴り落ち、私が見た時には焼くというより、炎で燃やしている状態だった。

 私はパジャマに着替えると、きれいに片付いた部屋のソファで夕刊を広げた。しかし、涼子が気になって。気になって、仕方がなかった。私が暇そうにしていると言って、怒声をぶつけてくるかもしれない。そう思うと、新聞もろくに読んではいられず、病院の待合室にでもいるように、ソファに浅く尻を載せながら、ただただ緊張に包まれていた。

「さあ、田島さん、できたわよ」

 涼子はテーブルに秋刀魚を運んできて、ご飯までよそってくれた。私は椅子に座ると、献立を眺めた。

 今夜の献立は、ご飯と味噌汁と秋刀魚だった。

 味噌汁の具はワカメだったが、涼子の予想より膨らんだのだろう。ワカメの底に汁が申し訳程度に入っていた。秋刀魚は頭も尾鰭もつけてただ丸ごと焼いただけだった。

 私は大根おろしが欲しいと思ったが、涼子が和平を求めている時に、機嫌を損ねることは言いたくなかった。

 私は醤油をかけて、ぱさぱさとしたご飯とともに、焦げた秋刀魚を口に入れた。

「おいしい?」涼子がにっこりと唇を結んで聞いてきた。

「うん」

 その微笑みに、私は脅迫されたように頷いた。

 確かに、そう確かに、妻が亭主のために夕飯を作った。それだけでうれしく、感謝の気持ちでいっぱいになった。しかし、そんなものでは埋めることのできない寂しさが、私の心の底でいじいじと燻っていた。その原因は大根おろしだった。私は食事をしながら、たまらず心で叫んだ。

 ああ、なんて気の利かない女なんだ! 秋刀魚に大根おろしをつけないなんて! 

 この涼子が、妻でなければ、例えば山崎桃子が私の妻なら、秋刀魚に大根おろしを添える常識くらいわきまえているだろう!


【小説】やっと結婚できたと思ったら妻は家事をしない怒る女だった  #11へ続く


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