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【小説】やっと結婚できたと思ったら妻は家事をしない怒る女だった #4

 三月。札幌市街の道路が車塵の混じった雪解け水にまみれ、車を洗っても靴を磨いても努力が報われない三月。ユニクロの装いが春を告げても、心で前向きに春を感じようとしても、本当の春はまだまだじゃぶじゃぶ道の下に沈んでいる三月。全てが「待ちの状態」の、まったくどうしようもない三月。その三月によくもまあ涼子と出会ったものだと今でも思う。

 そのちょっと前、私は北二条にあるホテルニューオータニ一階ロビーの化粧室にいて、二十六センチの黒のリーガルシューズに跳ねた泥をトイレットペーパーで丁寧に拭きとっていた。
 泥はソックスやズボンの裾のところにもかなりついていたが、こっちのほうはぺろっと嘗めた指先で擦っても小さな染みの輪はきれいに落ちなかった。

 歩き方が悪いわけではない。歩けないのだ。冬から春へ向かう三月は、どこの交差点も深い水溜りができている。深いという言葉に語弊があるのなら、靴の高さくらいの、という言葉に置き換えよう。でも、渡らないと目的地までたどり着けないから、水溜りをひょいと飛び越えたり、爪先をそっと立てて進むしかない。で、その結果がこの汚れだった。
 いったい、いつになったらきれいな靴や染みのないズボンで歩けるのだろう。ああ、早く春が来てほしい、春が、春が、早く、早く、と頭の隅で願いながら、私はハッーと息を吹き掛け、眼鏡のレンズの汚れをハンカチーフで拭うと、耳に掛け、スーツの内ポケットから櫛を取り出して薄い髪を念入りに撫でた。それから化粧室を出て、ロビーの向こうにある幅の広い階段を上って行った十分後、私は会費制の披露宴の席についていた。

 新郎は同僚の西村和夫で、お相手は地場の建設会社に勤めていた短大出の才媛だった。広い横長の会場には二百人ちょっとの客がいて、俯いたり、金屏風のほうを向きながら、仲人の長話の洗礼を受けていた。が、私は仲人のスピーチなどそっちのけで眼鏡の向こうのしんとした世界に瞬く若い女達に心を煌かせていた。
 この手の催し物に何度も何度もお義理で出ていると、氷が解けてしまった水割りみたいに祝福の気持ちも薄れてしまう。女との出会い。独身者にはそれがたった一つの楽しみになり、私は花嫁側の客にまだ唾のついていない女はいないだろうか、そんな不謹慎な期待を連れて披露宴に来ていたのだった。

 すると高砂席に向かって右隣、匂い立つような一団が占めている丸テーブルの正面に、両肩を剥き出した、黒いドレスのモナリザがいた。彼女は話し手のほうに顔を向け、スピーチをちゃんと聞いていたが、右手だけはしきりに動き、頬にぱらっとかかる髪を煩わしそうに払っていた。その時、ちらちらと見えた白い首がミョーに長く思えた。ぱっくり開いた襟元のせいか、それとも顔が小さいからだろうか。そんなことを考えながらぼんやりと見ていたら、視線を感じたのか偶然なのか、彼女がハッと私のほうを睨んだ。まるで弾丸が飛んできたようだった。私はどきっとし、慌てて顔を伏せた。それが川村涼子との最初の出会いだった。

 初めて話をしたのは披露宴の後の二次会の席で、場所はすすきの六丁目の「バード」というパブレストランだった。そこは貸し切りとなり、新郎新婦の大学時代の友人や会社の同僚が四十人ばかり集まっていた。そこに涼子もいた。私はカウンターの空いた席に座り、例の黒髪の女も来ているなと、それだけでなんだか幸せな気持ちになりながら、ワイルドターキーの薄い水割りを飲んでいた。

 この時、公平な目で見て、涼子がいちばん美しかったかどうかはわからない。涼子は壁際の席にいて、声の大きな、早口の、ソフトクリームのようなヘンな髪型の女と話をしていた。立てば背の高そうな、その相手の女もなかなかの美人だった。香りを振り撒きながら男達の視線の中をちょこまかと動き、化粧室に何度も通っていた女もそそるものがあった。小柄だったが、ボリュームたっぷりの弾けそうな肉体を赤いワンピースの中に詰め込み、歩くたびに胸や臀がブルルンと爆発しているようだった。まったく別のところで花嫁を囲む輪の中にいた、家柄の良さそうな、鼻筋がきれいな、コリー犬のような顔立ちの女も素敵だった。なのに、どうして涼子じゃないといけなかったんだろう。知らず知らずのうちに恋の神様が透明なロープで私と涼子をぎゅっと結んだのだろうか。私は不思議な強い力で涼子に引っぱられてゆくのを感じた。

 あああ、彼女が笑ってる、・・・グラスを口に運んだぞ、・・・髪をまたかきあげた、・・・ピザをつまんでる、・・・それだけで心にロマンチックな雷雲が生まれ、ときめきの稲妻を体中に落として私を痺れさせた。

 そんなふうに目の端でちらちらと涼子を見ていたら、
「田島さん」西村のテーブルから竹田がやって来て、

「西村に聞いたら、あの女、嫁さんの同僚ですって。まだ独身だそうですよ。田島さん、チャンスですね」

「何がチャンスなんだ」

「またァ、一目惚れしちゃったくせに」

 私は大通公園を見降ろすオフィスビルにある情報機器の会社に勤めている。竹田はデスクを並べている男で、400ccのバイクと四輪駆動の車とスキューバダイビングの道具一揃えと無数のゲームソフトを持った、仕事も遊びもソツなくこなす現代っ子だった。耳まで伸びた髪を真ん中に分けた童顔がなかなか憎めなく、高校の後輩ということもあってか、公私において面倒をみていた。もっとも「私」の方は世話のなりっぱなしで、涼子のことを漏らしたのも彼に何とかして欲しいという暗黙の願いがあったからだ。だけど、いざとなったら私はいつも怖じ気づいてしまう。困った性格だ。

「でも、どうせ男がいるだろう」

「いたって構いはしませんよ。何なら僕がセッティングをしてやりましょうか?」

「いいよ、そんなことしなくたって。俺はただ、彼女がそこにいるっていうだけで幸せなんだから」

「ああ、あ。田島さん、そう言ってすぐ逃げるんだもんなァ。だからいつまでたっても結婚できないんですよォ」

「余計なお世話だ」

 そう言っているところへ、西村が花嫁を連れて挨拶に来た。

「田島さん、明日から十日ばかり休みますが、後はよろしく頼みます」

 鴬色のスーツを着た西村は獅子鼻で、にきびの跡が残った大きな脂ぎった顔はお世辞にもハンサムとは言えなかったが、彼と一緒に頭を下げた花嫁は美人だった。眉毛や目の回り、唇がはっきりとした化粧映えがする女で、晴れの日のヒロインにふさわしく表情がおそろしいほど輝いていた。ブラウスの下で大きな乳房が微笑んでいるのか、西村と同じ色のブランドスーツがちょっと窮屈そうだった。この女が醜男の西村に今夜抱かれると思うと、羨ましさを通り越し、嫉妬さえ感じた。

「いいなあ、ヨーロッパへ新婚旅行か。どこを回ってくるんだ?」

「まずイタリアに入って、それからフランス、イギリスを回ってこようかと」

「お土産を忘れるなよ」私が偉そうに言うと、

「田島さんはお土産よりも彼女を紹介してもらった方がいいんじゃないんですかァ?」

 竹田が横から口を挟んだ。

「馬鹿ッ!」

「だって、ロマンスのひとつも生れないと面白くないですよ」

「彼女って?」西村が聞くと、

「ほら、さっきの」竹田は涼子のいるテーブルを顎で示した。

「誰かしら?」花嫁もそっちへ顔を向けると、

「川村さんだよ」と西村。

「ああ、涼ちゃん」

「どう? 彼女、今つきあっている男がいるかなあ」竹田が馴々しく聞くと、

「さあ、どうかしら。そのへんはよくわかんないけど、涼ちゃんはいい子よ。彼女がいるだけで職場が明るくなるの」

「じゃあ、ちょっと挨拶がてらに向うへ行ってこっちへ連れてこようか」

「ええ」

 二人は女達が花束のように固まっている壁際の席へ歩いて行った。祝福の黄色い歓声が湧き上った。花嫁が青い鳥の絵の真下にいた黒髪に何かを言った。黒髪はちらりと私を見た。私は慌てて目を背け、煙草を吹かした。

 それから三分ばかりたって、竹田が「田島さん」と私の腕を指で突いた。

 
 

⇒【小説】やっと結婚できたと思ったら妻は家事をしない怒る女だった  #5へ続く

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