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【小説】やっと結婚できたと思ったら妻は家事をしない怒る女だった #11

 今思えば恐怖の兆候はあった。それは、婚約時代に涼子が私のマンションに泊まった時のことだ。朝、私は先に起きていて未来の花嫁のためにベーコンエッグを作っていた。対面型キッチンのカウンター越しに見えるリビングの断熱サッシの向こうは、セントバレンタインデーが過ぎたというのに朝から猛吹雪だった。晴れていれば正面に見える大倉山シャンツェも白い嵐に呑み込まれていた。だけど最愛の婚約者と一緒に朝を迎えたせいだろうか、陽差しがたっぷりと溢れる真夏のどの朝よりも室内がパッと煌めいてみえた。フライパンの中でちりちりと焦げるベーコンの油っぽい匂いを嗅ぎながら、

 ああ、なんて! なんて素晴らしい朝なんだろう! と思わずにいられなかった。

 だが、一発の銃声によって平和な時代が呆気なく幕を閉じるように、涼子のひと吠えによって何もかもが一変してしまったのだ。

 くしゅん。

 涼子はくしゃみをした。

 可愛くもないし、大袈裟でもない、何の変哲もない、ただのくしゃみだった。が、それが恐怖の前触れだった。

「薬を、買ってきてよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」

 私は、びっくりした。

 グラッと揺れを感じた時、本能的に火の始末を気に掛けるように、私はフライパンを載せているガステーブルの火を消した。それから布団が敷いてある六畳間へ歩いて行き、襖を開いた。しかし、布団には、すぐに近づけなかった。それは、空気。空気のせいだった。天井から無数の剃刀がぶら下がっているようなぴりぴりとした異様な空気。涼子は掛布団の中に埋まっていた。

 薬が欲しいのはわかった。だが、なぜ? どうして? 何のために? あんなに大きく、あんなに荒っぽく、叫んだんだ? それに、この緊迫した空気は何だろう?

 私は涼子が壊れてしまったんじゃないのかと思った。以前、酢の瓶を床に落として割った時、ガス漏れの警報機が突如鳴り出したことがあった。その時は「警報音の止め方」のしおりを読んで、警報機をどうにか黙らせることができた。が、涼子には、取扱説明書はついていなかった。

「どうしたの?」

 私はおそるおそる涼子に声を掛けた。

「ううう、ううう、薬よォ、薬ィィィ!」

 それはわかっている。私が知りたいのは、今、叫んだ理由だ。

 涼子の鼻の下には天性の微笑みを生み出す、私の大好きな唇があった。その生き生きとした、何の悪意もない唇の間から、あんな凄んだ声が飛び出すなんて、私には信じられなかった。布団の中に別の女が、いや別の凶暴な生き物が、例えば口から火を吐く怪獣が、潜んでいるのではないかとさえ思った。それなら、この身を切るような異様な空気の説明がつく。

「薬って?」

「風邪薬に決まってるじゃないィ! くしゃみが出たのよォ、風邪よォ、風邪だわァ、風邪をひいたのよォ! ううう、ううう、ううううう・・・」

 ああ、それで。

 それで、薬がホシカッタンダナ・・・。デモ、風邪? 風邪だって? くしゃみひとつでか? くしゃみひとつで風邪だと言い張るのか? なんてオオゲサナンダ、コノオンナハ。あんなに、あんなに大声を出せるほどゲンキナノニ、ナニガ風邪だァ。

 私は穏やかに言った。「朝食ができたよ。さあ起きて、熱いコーヒーを飲めば、風邪ナンテ」

「そんなもん、いらないわァ! 薬よォ、薬ィ! ううう、早くゥ、早くゥ、薬を買ってきてっ、てばあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 この時はまだ婚約時代だ。涼子の全てを知っていたわけじゃないし、涼子がすぐパニックに陥ることも、陥った場合の対処の仕方も知らなかった。風邪をひいたとか、頭が痛いとか、便秘だとか、コンタクトレンズが外れたとか、生理が始まったとか、ちょっと具合が悪くなると、信じられないほど獰猛になることも知らなかった。

 私はそれまでの三十年間の人生の中で蓄積してきた方法なり、考えなりでこの女に接してきた。叫ぶ前まで、そのやり方でも十分に通用できた。だけど、それからは・・・。

 資本主義社会の平和な時代で学び、考え、体験し、培ってきたもの全てが、その後の涼子との生活で、何の役にも立たなくなってしまったのだ。

 三十何年も生きてきたのに私には女を見る目がなかった、なんという安易な出会いをしてしまったのだろう。と、あとになって嘆いたが、涼子を初めて見て、こいつは私が抱いてきた女性像を木っ端微塵にする女だと、どうして見破ることができるだろう。機嫌さえよければ、涼子は最高に、最高に可愛い女なのだから・・・。

「それとも・・・」涼子が洞窟の奥から言う。

「うん?」

「田島さんのところに、風邪薬はあるの?」

「たぶん、ないと思う」

「ないィ? じゃ何ボケッとしてんのよォ! 早く、早く、早く行ってよォ、薬を買いにいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!」

 くしゃみひとつでフィアンセに雪の中を走らせるつもりか、この女は。

 私はムッとしたが、ハンガーからハーフコートを取ると、部屋から飛び出した。

 何のために? 

 愛のために? 

 いや、恐怖心のために。

 そう、すぐに走り出さなければ、この女に怒鳴り殺されるかもしれないという恐怖心のために、だ。

 私はその時の涼子の顔を、今でも鮮明に覚えている。涼子はグレムリンのような危険な生き物に変体をし、デッドボールをくらった助っとのような険しい、殺気だった顔で、布団の洞穴から私を睨んでいた。ううううう、ううううう、うううううと、ダイナマイトに括りつけてある導火線の火花のように唸りながら・・・。

 朝の八時に雪の中を駆けながら私は心で叫んだ。涼子のくしゃみのために、なぜ私が寒い思いをしなければいけないんだァ! これが結婚の試練というやつかァ! 玉子を焼くだけじゃだめなのかァ! あああ、ベーコンエッグが冷めてしまううう! ぶるっ。おおお、寒い! デモ、彼女トノ結婚ノタメナラバ・・・ぶるぶるっ。寒クタッテ・・・ぶるぶるっ、ぶるぶるっ、ぶるぶるっ・・・ぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるっ・・・。

 そして、その震えは、今でも続いているのだ。


【小説】やっと結婚できたと思ったら妻は家事をしない怒る女だった  #12へ続く


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