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【小説】やっと結婚できたと思ったら妻は家事をしない怒る女だった #5

 振り返ると、西村と花嫁の間に涼子が立っていた。しかし、春のゲレンデで太陽を仰ぐように、私は彼女を直視できなかった。

「こちらが今話していた田島さんです」

「何を話してたんだ?」私は西村を見た。

 涼子を見たくても肉眼は言うことをきかず、西村のあばた顔ばかりを映そうとする。しかし、

「ご実家は大きな果樹園だそうですね」

 その声が、私の目の玉をぐいと引っ張った。私の前に涼子がいた。瞳で微笑む顔が、花のように鮮やかだった。

「うちはただの農家で、細々とりんご園をやっているだけですよ」

 私はうれしいのに、わざとぶっきらぼうに答えた。

「田島さん、こちらは川村涼子さん」花嫁が私に涼子を紹介した。

「はァ、そうですか、初めまして。田島真一と申します」

 事務的な挨拶をすると、私はサラリーマンの悲しい習性で野暮にも名刺を差し出した。するとほっそりとした右手が優雅に伸びてきて、長くなよっとした指がそれをつまんだ。私はその手を見た。地下鉄の吊革も、バーのグラスも、水洗トイレのレバーも、これほど美しい女の手に出会ったことがあるだろうか。爪が伸び始めたばかりの少女の手のように華奢で、頼りなさそうで、実用性にはあきらかに欠けていたが、フォークボールが放れそうな伸びやかな指の先端に大粒の宝石でも嵌め込んだように赤い爪が君臨し、親指から小指まで一本一本にきりっとした品格があった。私は涼子の魅力を改めて感じ、その手をたまらなく触ってみたくなった。

 私が彼女のところへ帰っていったその手に見惚れていると、

「田島さん」

「うん?」

「僕達はちょっと失礼します。あとはよろしくやってください」

 西村が真面目臭った顔で私に言った。

「あ、ああ」

「じゃあ、あとはお二人で」

「しっかり、ものにしなきゃだめですよ」

 竹田も私に囁いて行ってしまうと、私は涼子にカウンターの席を勧めた。
 この時、涼子がちょっとでも迷惑そうな素振りを見せたら、私はきっと決まりの悪い思いをし、私達が夫婦になることはなかっただろう(これも運命の名場面というやつか?)。しかし、涼子は「くすくす、くすくす」と声に出し、照れ臭そうな表情を作っただけで、丸椅子に腰掛け、ドレスの裾下でひょいと脚を組むと、ごく自然に話を持ちかけてきた。

「ヨーロッパへ行くなんて羨ましいですね」

「えっ?」

「新婚旅行に」

「あ、ああ、そうですね」

 私は涼子の靴に目を落とした。細いパンプスは革も金具もつるつるに輝いていた。
 彼女の歩く道には、黒い水溜りはないのだろうか?

「私、飛行機に乗ったことがないもんですから、余計に羨ましくて」

「ほおぅ、意外ですね」

「どうして?」

「飛行機に乗ったことがあるようにみえるからですよ」

「行動力がまるでないもんですから、ええと」

 涼子はちらっとカウンターに載せてある私の名刺を見た。「田島さんは、飛行機に乗ったことがあるんですか?」

「そりゃあ、ありますよ。年に何度か出張で東京へ行きますし、それに向こうの大学に行ってましたから帰省をするたびに飛行機を利用していました」

「へえー、田島さんは東京にいらしたんですか」

「ええ」

「私、北海道からまったく出たことがなくて」

「ずっと札幌なんですか」

「出身は釧路なの」

「ああ、釧路」

「田島さんは?」

「余市です。小樽の先の」

「あとは継がなくてもいいのかしら」

「えっ?」

「りんご園の」

「ああ、ええ」

「余市って札幌から遠いのかしら。ごめんなさい、私、小樽から先へ行ったことがないものだからわからなくて」

「札幌からなら車で一時間半くらいです」

「あら、そんなに近いのなら継げばいいのに」

「札幌から近い遠いは関係ありませんよ」

「ふうん。じゃあ今のお仕事をずっと」

「ええ。飛行機に乗れますから」

「いいなあ。私も男に生まれてくればよかったな。男の人なら出張で飛行機に乗れるかもしれないけれど、女はなかなか出張にも行かせてもらえないし・・・。私、新婚旅行まで、飛行機に乗れないのかしら?」

 涼子の言葉に、私はただ微笑んだだけだ。

「新婚旅行は国内でも海外でもどこでもいいけど、飛行機に乗って行きたいなあ」

「きっと叶いますよ」

「そうかしら。そうだとうれしいなあ」

 と言って、涼子は夢見るような顔をした。太い眉、黒い目、細い鼻、赤い唇がバランスよく詰まった顔は少し生意気で、短気そうにみえたが、笑うと漫画のように崩れ、唇の両端に小さな窪みがぽこっとできた。

「ところで、僕の実家の話をいきなり持ち出すなんて、西村は他に、あなたに何か言いましたか?」

「さあ」

 今度はくすくすと声に出して微笑んだ。ああ、笑った顔がとても素敵だ! 私は小さな顎の上に横たわるその唇をたまらなく自分のものにしたくなるのを感じた。
 ちなみにこれはあとから涼子に聞いたのだが、西村は彼女にこう言ったそうだ。

「田島さんのところへ行ったら、いきなり結婚を申し込まれるかもしれませんよ」

 もしも涼子が微笑みでごまかさずその通りを言っていたら、私は顔がカッと熱くなり、電話番号などとても聞きだせなかっただろう。気心の知れた仲間内では明朗快活に振る舞えても、私の本質は気の弱い空想家なのだ。

 私は三十分ばかり涼子を独占することができた。
「クラブに行くの」と言って、涼子は背の高い女と二次会の途中で出ていったが、席を立つ前に携帯の番号を教えてくれた。私は咄嗟に番号交換の仕方がわからず、慌てて手帳に書き留め、上着の内ポケットにしまった。
 すすきのからマンションへ帰るタクシーの中で、私は胸のあたりを触り、手帳のありかを確認した。絶対に、落とすはずがないのに何度も、何度も、何度も、本当に何度も。そのたびにほっとし、自然とにやつく顔を窓に映した。彼女にまた会える、と思っただけで心臓に白い翼が生えて、それがぱたぱたとはためき、いまにもお尻が宙に浮かぶようだった。


⇒やっと結婚できたと思ったら妻は家事をしない怒る女だった  #6へ続く

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