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【小説】やっと結婚できたと思ったら妻は家事をしない怒る女だった #15

 元日の朝、私は七時に目が覚めた。襖の向こうはしんとしていて、まだ誰も起きてはいないようだった。涼子は私に撃たれる夢でも見ているのか両腕を布団から出し、万歳をするような格好で高鼾をかいていた。私は仕方なく目を閉じた。しかし、眠れず、かと言って起きれず、それから二時間ばかり布団の中で寒い時間が過ぎるのを待った。その間に二階から涼子の両親が起きてきた。襖越しに話し声や新聞を広げる音、食卓を整える音が聞こえてきた。私は小便が我慢できなくなってきたこともあり、もうこの辺で布団から出てもいいだろうと思った。

 私は涼子の肩を突っついた。

「・・・ううう・・・」

 涼子は眠りながら唸った。

「涼ちゃん、起きようよ。もう九時を過ぎたよ」

「うーん・・・」

「さあ、早く起きて」

「・・・私は眠いんだからァ・・・」

「頼むから」

「うるさいわねェ! 私は眠いのォ・・・」

 涼子は私からぷいと顔を背けると、布団の中で体をもそもそと回転させた。正月より魅力的な何かが、夢の中に潜んでいるのだろう(それとも、私から銃を取り上げたのかな?)。その何かはすぐに涼子を引っ張っていった。私は自宅から持ってきた紺色と白のストライプのパジャマを脱ぐと、布団の中で縮こまりながらシャツとズボンを身につけた。それから立ち上がり、自分の布団を押入にしまうと、大きく呼吸をし、襖を開いた。

「おはようございます」

 両親とも食卓で雑煮を食べていた。

「あら、早いわね。まだ眠っていればいいのに。夕べは遅くまで起きていたんでしょう」

「ええ」

「涼子は?」

「まだ眠っています」

 私は顔を洗った。洗面器の水は冷たかった。手拭で顔を吹くと、新年らしいしゃきっとした気持ちになった。

 茶の間に戻ると、涼子が父親に起こされていた。涼子は布団を奪われてはなるまいと、両手でその縁をしっかり掴み、「眠らせて!」と絶叫しながら必至に抵抗していた。

「正月だぞ!」

「関係ないもん!」

 私はまるで寸劇でも見るように、襖の間の光景を眺めていた。私はこの時、義父を応援してはいなかった。むしろ涼子は起きないだろう。起きないで欲しいと願っていた。自分でも手に負えない猛獣を他の人間に手懐けられてたまるかという調教師のプライドのようなものが私の心にあったのだ。例え言うことをきかなくても、涼子のことをいちばん知っているのは自分なのだという。

 義父は涼子に蹴飛ばされるように和室から追い出された。

「申し訳ない」

 義父は娘の罪を一身に背負って私に詫びた。

 一月一日のこの日、涼子が起きてきたのは午後の二時過ぎだったと思う。それまで私が何をしていたのかというと、まず雑煮を食べた。私は雑煮が大好物で、小学校に上がる前からどんぶりでおかわりをしていた。結婚する年の正月も餅を十数枚食べ、いい歳をしてそんなに食べるもんじゃないと母に咎められたものだ。ところが鶏ガラでじっくりダシを取った、舌先に微かなとろ味を感じる母の味に比べ、川村家の味は淡白だった。蕨、竹の子、高野豆腐、鶏肉といった具もつゆに馴染んでなく、軽い液体に浮かんでいるだけだった。餅は焼いてなく茹でてあり、器の底でべっとり溶け合っていた。おそらく、二枚入っていたと思う。私は鰊漬をおかずに一杯だけ食べた。餅は十枚以上という記録もついに涼子の実家で途切れることになったのだった。

 私が雑煮を食べ終わる頃、義父は年始回りに出掛けた。私は茶の間の隅で新聞を広げた。新聞をこんなに拾い読みしたのは初めてのことだ。新春の特集記事から名刺広告、初売りのチラシまで目を通した。そうでもしないと、とても間が持てなかった。

 正月なのに、テレビもついていないのだから。

 すると、私の気持ちを察したのか、ストーブで背中を暖め、年賀状を見ていた義母が、

「退屈でしょう」と言った。

「ええ」私は正直に答えた。

 テレビをつけてくれるのかと思ったら、

「五目並べでもするかい?」

「はあ」

 私は思いも掛けぬ義母の提案に頷いてしまった。

 義母はサイドボードの下の扉を開き、碁石と折畳み式の碁盤を出した。それを食卓の上に置くと、ジャンケンをした。私が勝ち、黒い石を碁盤の真ん中に打った。

 正月早々妻の母親と五目並べをするのはとても奇妙なことだった。一回目はすぐに私が勝ち、今度は義母が先に打った。互いの碁石を三つ、四つ並べた時、「真一君」学校の先生のように義母が私の名を言った。顔を上げると、

「ごめんなさいね。私も仕事をしていたから涼子に何も教えず、わがままに育ててしまって。あれの悪いところはみんな私の責任だと思うの。ほんとにごめんなさいね」

「・・・・・」

 私は何と答えていいのかわからなかった。だから黙っていた。

「あれももう少し優しければいいんだけど、すぐカッとなる子だから。いつだったか札幌から帰ってきた時、涼子、お多福風邪にかかったの」

「お多福風邪ですか」

「そう。それで顔なんかぷっと膨れて。お父さんが笑ったら、もう怒って、怒って」

 そりゃあ怒るだろうと私は思った。風邪をひいたくらいで我が家の空気を不穏にするくらいだから、お多福風邪を笑った父親への怒りは想像がついた。

 私は可笑しくなった。あのつんと澄ましたきれいな顔が十五夜のお月様のように丸くなったのだ。涼子は自分の顔を鏡に映し、グリム童話に出てくる悪いお妃のようにひとりでパニックに陥ったに違いない。私の不意に緩んだ唇を見て、義母も目を細めて微笑んだ。

「あんな娘だけど、どうかよろしく頼みます」

 義母が白い碁石を撮み、次の一手をちょっとためらった時、私は天井を見上げた。大きな安物のシャンデリアがぶらさがっていた。今にも落ちてきそうな煤けた天井を見ながら、今年の年末もまたここへ来るんだろうなと思った。


【小説】やっと結婚できたと思ったら妻は家事をしない怒る女だった #16へ続く

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