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死が生まれるときに思い出すこと。

ごきげんよう、怜です。


今朝は何とも暗いニュースで起きました。

近しいかろうとそうでなかろうと、昔から死が生まれたときにふと思い出す文章があります。

心にずっと残っていて、皆さまにもお見せしたいなと思ったのですがその方がその文章を非公開にされているので自分のニュアンスをつけて。

死を悲しむのは生者であり、その死に意味を突きつけることなく受け入れるべきだと。ただ今までの功績を讃えるべきだと。

死の向き合い方は多種多様です。

私の死生観は自分でもマイノリティだなぁとよく思っているので、もしかしたら過去のnoteでも言っているかもしれません。

死に意味をつけるのはいつだって残された生者です。それは、何とかしてそこに意味を見出さないと心が保てないから。

それは間違ったことだとは全く思いませんし、そうしないと生者が生者でいられなくなるほど追い詰められる時があると思います。

しかしそれはその人に近しい人の中で行われるもので、外部の人間がとやかく言うことではないのでは、と私は思います。

外部の人間は死の意味を見つけなくても大丈夫、という意味ではなくて、それを発信するときに誤解する人が現れるという危険性があるから。

近しい人も、そうでない人も、その死に意味を見出し、それで心の平穏を保つことができるなら見出すのも大事だか、それは発信されるべきでない。

自分の平穏を保つのに、ほかの人の意見はいらない。自分で落ち着く回答を見つけて大事にしてあげるべきである。

と、私個人は思ったりしています、今のところ。


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1年ほど前に祖父が亡くなった時も死について考えて、どっかにメモしたなぁと思ったらちゃんと残ってました。

そして思うのは、どうやら私の死生観はこの1年で特に大きく変化してないぞ、ということ。

それは、いい悪いでなくたまたまそうであっただけ。今、生きている私の家族や友人が死んだらこんなの変わるかも知らないし。変わらないかも知らないし。

さて、いつかの私へ。
あなたの死生観は今、どうなってますか?


よろしければぜひ♡