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正義の読み合い

子育てをしていると、どうしても避けられない場所がある。それが公園です。うちは全員男の子なので、公園でも行ってエネルギーを発散させないと夜になっても騒がしいまま。だから仕事の合間を見ては、子どもたちをよく公園に連れて行きます。

正直なところ、公園に行くのはあまり気が乗りません。特に自分達以外のファミリーが公園で遊んでいたりすると、内心「うぁ、面倒だな。。。」と思ってしまうことがあります。

それはなぜかというと、各家庭で子育てや公園での子どもの遊ばせ方に何かしらの正義があり、その正義を「どこまで踏み込んでも大丈夫か」と、読み合う必要があるからです。

倫理的なことと比べると、子育てに関する正義は各家庭で大きく異なります。例えば、公園にゴミを捨ててはいけない、は倫理的な正義なので多くの人がそのルールに準じて遊ぶでしょう。しかし、子どもが砂場に掘った穴を遊び終わったら埋めて元に戻さなくてはいけない、は各個人の正義なので人によって基準はバラバラです。

「まぁ、いいんじゃない?」という人もいれば、「他の小さい子が穴に落ちたらどうするのよ!!」と声を荒げる人もいます。この塩梅を読むのが難しい。

みんなで使う場所だから元に戻すのが流儀では、という考え方があるのは分かっているのですが、私は正直「子どもがやってることだから、その子どもに任せよう」というスタンスです。

大きいお兄ちゃんが作った作品があると、それを元に何かひらめきがあるかもしれない。新しい遊び方を発見できるかもしれない。そういったことの方が、子どもにとって怪我をすること以上に得るものがあると思ってしまうタイプです。おそらくこれは自分の育てられたルーツによる影響も大きいのかもしれません。

正義のルーツは自己体験にあり!?

私の母親は放置系の子育てでした。私がまだ幼稚園の年中〜年長だった時に、井の頭公園で迷子になったことがあります。知らない場所で「こっちだ!」と思っても、また知らない場所に出る。そんなことを繰り返していくうちに、自分がどこにいるのかも分からなくなってしまいました。

その時に母親は何をしていたかというと、ママ友と一緒に花見をしてお酒を飲んでいました。私がたまたま声をかけてくれた大人の方と一緒に母親を見つけて駆け寄った時に、迷子になっていたことに気づいた次第です。(今だったら育児放棄だ!とバッシングを浴びそうな内容ですが、当時はそれが普通のことでした)

なぜそのようなことを鮮明に覚えているかというと、その時の体験が強烈だったからだと思います。自分の力で知らない場所を歩きながら母親を探す。もしかしたらこのままもう会えないんじゃないかという不安。

そういった感覚が大人になってどんな影響を与えるかは分かりませんが、脳内で起こったシナプスの発火は日常のそれとは比べものにならなかったと思います。自由の中には予定調和じゃない要素が隠れている。これは常に子どもに目を配らない親の元だからできた経験です。

結局は自分よがりの正義

そんなこんなで、基本的に子どもの自由にさせるスタイルの私ですが、公園で遊んでいるとそれを煙たそうにしている親の目線が気になります。それでも自分のスタイルを貫き通せばいいかもしれませんが、そうやって傍若無人に公園で自分の正義をふり掲げる人は苦手なので、タイミングを見て他の遊びに誘導したりします。(そうゆう時に限って、子どもは頑なに同じ遊びばかり続けるのはあるあるですかね)

この読み合い、はたまた子どもたちの気を損なわせないようにしれーっと他のことに注意を向けるコミュニケーションが公園に行くことに対する抵抗感を生んでいるのだと思います。

ふと、「これがもしオーストラリアだったらどうなっていただろう」と考えることがあります。(実際、SOLOを受講する方の中にも子どもの将来のために海外移住を考えている層が一定数います)同じ文化圏のなかで、異なる正義がうまれてそれに対して疲労感がある。これが異文化であれば、その差異はもっと広がりそこに生まれるストレスはより大きくなるのだろうか。それとも、大きくなりすぎて逆にストレスとして感じなくなるのだろうか。

京都に外国人が増えた。今は住む場所は働き方次第でどうにでもなる。これからもっと沢山の価値観・正義が織り混ざり、未来の輪郭を形作っていく。私の考え方もその織り混ざっているものの一つ。結局、何が正義で何が違うかなんてことは、捉え方次第なのだ。

今日も何事もなく公園での遊びが終わった。よかった、よかった。

さぁ帰ってからもカウンセリングが何本か。カウンセリングでも自分の正義を押し付けないように気をつけよう。

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