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夏休み

 「宿題」なるものは非常に恐ろしく、煩わしいものでした。まるで、返済の余地が立たない借金のように思えていました。
 休暇中の小学生に書写や絵画をかかせるというのも、評価されるような良い作品を生み出させ、自らの学校の株をあげるためのものではないかと思えて仕方がなかったのです。
「呉越同舟」という言葉がありますが、不思議なことに私はまさにあの「宿敵」に興味すら湧き、単なる好奇心を以って会話を始めようとしていました。

 子どもの頃のこころを取り戻した気がするのです。
 夏は好きでした。毎年耳にするような聴き馴染みのある「夏うた」が聞こえてくると、蝉の声や、夏の青葉が燦燦と輝いている景色、お祭りのにおいなどが感じられ、門番を跳ね飛ばし、扉を叩き割ってしまうのです。
 夏休みが好きでした。単に学校に行かなくて良いという、熱心にお勉強をさせしめんとする大人の方たちから見れば「なんという怠け者だ」と思われるような、いわゆる「堕落」。それは私の頭の片隅にもありましたが、それだけではなかったのは確かです。夏休みの終わりというのは、また学校に行く毎日になることを拒絶する感情を呼び起こさせたのと共に、十分に、わざとであっても美化できるような「夏の思い出」とやらを作ってくれました。

 小学生の私はラジオ体操に行くべく朝早く目覚めました。(近所の子どもたちは夏休みになると毎朝6時に町内放送で流れる「ラジオ体操」を傍らに、それら全容をその身に沁み込ませようとしているのでした。)私としては「寝る子は育つ」という言葉を都合よく拝借し、もっと眠っていたかったのです。
 運動を終え高揚を傍らに全速力で家に帰りました。アサガオに水が与えられているのを片隅に認識しながら、玄関を駆け上がるのでした。小学生というのは本当に元気だとつくづく思わされます。
 簾から涼しい風が朝に水をあげたアサガオの香りをのせて茶の間まで吹き抜けてくるのを感じると、「これが夏休みなのか」と物思いに耽るような気分にさせられました。(単に私の感性がほかの人とは異なっていることも考えられますが。)

 二十歳になった私は、実に3年ぶりに実家で夏休みを謳歌しようと企みました。不思議な感情が浮かび上がってくるのです。在り来たりな表現ですが、自然を、日常を味わいたくなったのです。今年の帰省というのは何というか形容しがたく、(夢心地という表現もしっくりこないような。)
 いつもとは違うような感覚だけがあるのです。ただ確かなのは、心の持ちようが今までとは様変わりしたということです。一年前の自分を想像するだけでも身の毛がよだつような震撼の思いがするのです。

 私のその「企み」は、ただ本を読んだり、油絵を描いてみたりといったものです。いわば小学生の夏休みの宿題のようなものです。そう思うと、私の趣味というのは小学生でも十分できることであり、小学生に粘土のような外装を重ねできているような人間のようにも思えます。
 当時の私とって、ある意味小学生を演る(やる)ことには向いていたのかもしれません。

 「童心に帰る」ということは、非常に勇気のようなものがいるように感じますが、簡単に言えば子どもにでもできるようなことに帰る、つまり「基本に戻る」というものではないかと思えています。野球でいう「捕る・投げる」のようなもの、フットボールでいう「止める・蹴る」のようなものなのでしょう。熟練された者は、如何にも鮮やかで優雅にこれら基本の動作をやってのけます。彼らの「奥義」は少々恐ろしくも思えますが、私にもできる気もするのです。(自信過剰などではなく率直に思うのです。)どれだけ忙殺に駆られても「遊び心」は忘れたくありません。

 今回の私の手記は、時間を無駄にしてしまった際に襲い来る、あの興が覚め、何にもかえられ難い惜しい気持ちになってしまうような、そんな念を抱かないためと、単なる興味や好奇心を惜しみなく満たしたいというある種の欲を失わないために認めた(したためた)ものです。(ある意味これは、小学生が行う「作文」のようなものなのでしょう。)

よい夏を。

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