見出し画像

末法思想と阿弥陀浄土と平等院鳳凰堂


西方阿弥陀浄土を現出させた平等院鳳凰堂

平等院鳳凰堂は永承7(1052)年創建。源平合戦(1180)、楠正成と畠山高國の宇治合戦のおり(1336)、応仁の乱のときの山城国一揆(1485)と合計3度焼失している

今回は、宇治の平等院鳳凰堂を紹介します。10円玉に刻まれてるやつですね。
ちなみに、鳳凰堂に行くと10円玉に刻まれているものと同じアングルで撮影されている方がほとんどですが、左へまわって、阿字池から眺めると風情があっていいです。真正面はちょっと味気ない。

阿字池からの眺め
夜のライトアップも素晴らしい

さて、この鳳凰堂は古い建物で、平安中期に建てられました。先ほどの浄瑠璃寺の九体阿弥陀堂と同時期に建てられた古い建物です。同時代に建てられた建築物で有名なのは、岩手県平泉町の中尊寺の金色堂があります。
真ん中の扉の開いているところに、阿弥陀如来さんがいらっしゃいます。
中はキンキラキンに飾られて、壁には雲に乗った仏さんがたくさんいらっしゃいます。

鳳凰堂には阿弥陀如来が鎮座している
阿弥陀如来の周囲には雲中供養菩薩が舞い飛び、四方は黄金に彩られ、極楽浄土が表現されている

西方浄土を司る阿弥陀如来

さて、阿弥陀如来さんは、西方浄土にいらっしゃる仏さんです。
では鳳凰堂の位置を見てみましょう。

東にある宇治上神社を此岸、西の平等院鳳凰堂を彼岸、両側を分ける宇治川を三途の川と見立てると分かりやすい


宇治川の西に鎮座していて、宇治神社や宇治上神社の後方から昇る朝日に阿弥陀如来さんが照らされるという位置関係になっています。
ちなみに、宇治上神社が鎮座している山を朝日山と言います。
宇治上神社は古い神社で、記録では927年創建と言われてます。本殿は現存する最古の神社建築物で、国宝です。平等院鳳凰堂と同じ時期に建てられました。
この宇治上神社、そのふもとにある宇治神社、そして平等院鳳凰堂は一体で見ると分かりやすいです。
宇治川を三途の川に見立てて、川の西側が彼岸、未来のあの世の浄土に鳳凰堂の阿弥陀如来さんがいます。
鳳凰堂の中がキンキラキンなのは、ここが極楽浄土だからです。
ここもまた光源氏のモデルとなった源融の別荘が元になっています。
別荘を元に鳳凰堂が建立された時期は、末法思想がはびこっていました。末法とは、釈迦が亡くなって時代が下り、仏教がその効力をなくしてしまうと考えられた時期です。それが平安中期のこの時代。

厄災が続いた末法時代に信仰された西方阿弥陀浄土

平等院鳳凰堂が建てられた永承7年(1052)は、末法元年


天災・人災が続いたために、仏教が廃れる時代というだけでなく、終末論的な思想として捉えられるようになり、仏教も、現世での救済から来世での救済に変わっていきました。
そこで、西方極楽浄土をこの世に出現させたかのような阿弥陀堂が建立されたわけです。
平等院は1052年に建立されるのですが、前後にはいろいろ起こっています。

末法に突入した瞬間からさまざまな厄災が起こった

1044年 疱瘡流行
1046年 鴨川氾濫 堀川不通
1048年 内裏焼失 
1052年 平等院建立(末法元年)

建立後に
1177年 太郎焼亡(平安京の1/3近く焼けてます)
1178年 次郎焼亡(今の京都駅周辺がたくさん焼けてます)
1181年・1182年 春と夏に日照り、秋に台風と洪水で、収穫がほとんどなし。人々が餓死、路上に死体が放置されていました。

末法思想とはそんな時代の空気の中で生まれ、仏教が廃れる=終末思想へと変容していきました。
そんななかで、西方極楽浄土を求める人々が、主に貴族ですが、阿弥陀如来にすがり、鳳凰堂が建立されます。

ちなみに、金堂や本堂の前に池がひろがるかたちの庭を浄土式庭園と言います。
平安時代後期につくられました。
浄瑠璃寺の庭園もそうだし、この平等院鳳凰堂の庭園も浄土式庭園です。

西方極楽浄土へ向かうべく、阿弥陀如来さんが迎えに来てくれるのが来迎図です。
周辺の楽器を持って雲に乗っている仏さんは、雲中供養菩薩と言います。
この人たちも、極楽浄土を演出する大切な人たちです。
ジブリの映画の『かぐや姫の物語』にも、姫が月に帰る際、お迎えが来るシーンで、雲中供養菩薩が描かれています。というか、あのシーンは阿弥陀如来の来迎図とそっくりです。

九品来迎図
高畑勲監督作品「かぐや姫の物語」

雲中供養菩薩

平等院鳳凰堂には、この雲中供養菩薩がたくさんいます。現存するのは52体。

雲中供養菩薩。雲に乗り、楽器を奏で、舞う
平等院ミュージアム鳳翔館には雲中供養菩薩の精巧なレプリカが展示されている
雲中供養菩薩は大変人気で、トランプはじめ、さまざまなグッズが製作されている

この鳳凰堂の中は、当日予約で中に入ることができます。整理券をもらうので、並ばなくても時間がくれば中に入ることができます。隣の鳳凰堂ミュージアムでは、精巧なレプリカの雲中供養菩薩を見ることができます。レプリカなのに撮影不可なのだけど、間近で見ることができるので、見応えがあります。
大変人気で、写真集も出ているし、トランプやマステなんかのグッズにもなっています。

阿弥陀如来がいる西方極楽浄土を描いた當麻寺の「當麻曼荼羅」。中将姫が一晩で織り上げたと言われている

阿弥陀如来さんがいる西方極楽浄土の様子は、奈良の當麻寺にある有名な『當麻曼荼羅』にも描かれています。こちらは織物で、とても精巧にできたものです。

仏師・定朝が発明した寄木造で家内制手工業の実現

定朝が発明した寄木造の技法。これで量産、家内制手工業が実現した

あと、ここでお話するべきことは、この鳳凰堂の阿弥陀如来さんは、寄木造という手法でつくられているという点です。
この時代を代表する仏師の定朝さんがつくりました。
それまでの仏像は、木造の場合は、一木造、つまり、一本の木を彫ってつくっていましたが、定朝さんは、パーツパーツをつくって、最終的にそれらをつなげて1体の仏像を完成させるという手法を取りました。寄木造と言います。
一本の木から仏像を彫り出すようにつくると、木のゆがみやひずみを生かした、木の特性を見極めてつくっていくので、どうしても、シンメトリーにはならないんですね。そこが重厚感や迫力を生むんですが、パーツをつくって最後に組み立てる寄木造には、そうした歪みや重厚感はないです。
柔和で優美な造形が特徴で、平安貴族の趣味にも合って、定朝がもてはやされました。

定朝は仏師か否か、村上隆はアーティストか否か

寄木造の利点は、作業の効率化です。一木造だと一人の仏師が自己完結型でつくっていくけれども、寄木造は家内制手工業のように、複数の人で同時につくることができます。
現在でも通常の画家は一人で最初から最後まで絵を描きますが、村上隆なんかは、いろんな人が協力してひとつの作品を仕上げています。それに近いです。
今でも村上隆は画家なのかどうかといった論争があったりなかったりしますが、定朝もまた、彼は仏師なのか否かといった論争があったのでは?と思ったりもします。

村上隆(kaikaikiki)製作の洛中洛外図屏風

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?