大阪市本庄公設市場沿革
4月に惜しくも閉店した「ナベル本庄」の前身「本庄公設市場」の沿革の現物を借りる。
本庄公設市場は大阪の公設市場の中でも一番最初に設立された公設市場。
巻頭の文言が激文か!ってくらいに勇ましい。
【巻頭】
公設市場の第1期時代は米の廉売、第2期時代は物価調節、第3期時代は小売制度の改善・指導機関として常に社会に貢献しつつあり。今や進んで家庭生活の改善、指導、教育の機関として。
第4期の大事業、すなわち商品の簡易識別法、滋養分配併せて調理法を指導し、家庭経済の節約、能率増進の基調となるに至らば、各自の業務の発展を期するのみならず、市民の生活を向上せしむる第一歩にして、お互いの幸福また偉大なるを信ず。乞う、この趣旨に共鳴せられ、必ず実行せられんことを。
公設市場は、小売制度の改善指導機関として、経営せるものにして、いやしくも市内一般小売業者の模範とならざるへからず、しからば、第1条件は品質の選択、価格の公平、量目の正確を遵守し、よろぞ遺憾なきを期せざるべからず。
【本庄公設市場沿革】
当市場は大正8年度、大阪市第2次公設市場拡張に際し、これが建設を確定せられ、同年9月5日の創設にかかる。その当時は木造建物にして店舗数も40有余に過ぎざりしが、大正12年表側道路拡張の際、これに面したる一部を鉄筋コンクリート建に改装せられ、いささか旧観を一新せり。同年5月27日
かしこくも。摂政宮妃良子殿下御一行の御臨場の英をかたじけのうし、一層の面目を施しますます発展の域に向かいつつある折柄、図らずも火事の禍にかかり、同年7月27日表側の一部を除き全部烏有に帰す。仮営業所はわずか3日を以て建設せられ、8月1日より営業を続行することを得たり。大正13年11月末竣工し、12月1日を期し、60有余の新店舗は一斉に開店し現今に及べり。
大正12年 面道路側を拡張、一部を鉄筋コンクリートに。40店舗。
5月27日 摂政宮妃良子殿下御一行の御臨場
7月27日 火災でほぼ全焼
8月1日 仮営業所にて営業再開
大正13年12月1日 新店舗オープン、60店舗に
【営業種目】
米、麦、雑穀、味噌、塩、醤油
和洋酒
青物、内外青野菜類、乾物、缶詰類
生魚、川魚、塩干物
漬物類、豆腐、油揚、こんにゃく
砂糖
牛肉、豚肉、鶏卵
かまぼこ、天ぷら、ちくわ
茶
和洋菓子類、パン、内外果物
うどん玉、煮豆、佃煮、麩、漬け豆、餅、まんじゅう
炭
荒物、瀬戸物、金物、道具類
呉服、洋反物、衣服、糸、綿、メリヤス雑貨類、紙文具
洋傘、帽子、小間物
化粧品、薬種
傘提灯
履き物、姫糊
和洋生花類
【最近5ヵ年間における入場人員】
大正10年8月24日調査(7:00 - 19:00)
計 8,979人(男:2,213 女:6,766)
大正11年8月24日調査(7:00 - 19:00)
計 9,916人(男:2,421 女:7,495)
大正12年8月24日調査(7:00 - 19:00)
計 13,250人(男:2808 女:10,442)
大正13年8月24日調査(7:00 - 19:00)
計 13,288人(男:3,252 女:10,028)
右肩上がりですな。
当時の公設市場の所在地図も載っている。
【稲荷神社】
当稲荷神社は大正14年4月市場商人の醵金(金を出す)により造営し、市場の守護神として伏見稲荷神社より勧進し、祀神に咲花大明神の一尊を奉安す。霊顕いとどいやこちなる明神にして実者日々絶えず、毎年4月巳午の日をもって祭日とす。当日は数万の参拝者あり。お供物おびただしく一般参拝の児童にこれを分つを例とす。
この稲荷神社は公設市場屋上の一角にお社が構えられた。
また、公設市場オープン時には、大阪市より寄贈された八咫烏のブロンズ像が据え付けられたが、ナベル本庄に生まれ変わったときに、稲荷神社の社内に移され、現在に至っている。
冊子の裏表紙を見ると、「メートル換算歌」なるものが載っている。
たしか、尺貫法が禁止されたのは戦後も戦後の1960年くらいだったと思うが(永六輔がめっちゃ怒ってた)、すでにメートル法推奨だったのね。冊子は大正末の発行だと推測できるのだけど、
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