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コミュニティを解体する法の役割と、コミュニティに回帰しようとする現代

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このブログでは、2019年7月にうつ病を発症し、それをきっかけに同年12月からブログを始めて、それ以降、700日以上毎日ブログ更新してきた、しがないサラリーマン弁護士である僕が、日々考えていることを綴っています。

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【 今日のトピック:法の役割 】

僕は、木庭顕教授という、ローマ法の先生から、ローマ法を学びました。

ま、といっても、「さわり」だけ、というか、授業を受けて単位をもらっただけなので、木庭先生の名前を出すのも憚られるのですが、木庭先生の本を宣伝して、免罪符としておきます。

↑の本、めちゃんこおもしろいです。木庭先生の授業をそのまま受けている感じで、とても懐かしく、刺激的でした。

木庭先生の授業は、とにかくおもしろかったです。

僕も、2013年4月から2015年3月までの2年間、ロースクールに通ったのですが、その1年目に、木庭先生に出会いました。それまでは全然知りませんでしたが、授業を受けてみたら、(ロースクールの授業の中で唯一)おもしろかったです。

基本的に授業中寝て過ごしていた僕が、木庭先生の授業だけは、目をらんらんと輝かせて聴いていました。

何より、先生の質問に対して生徒が回答する形で授業が進められていて、その方式が最高によかったです。

対話で授業を進めるのを、「ソクラテス・メソッド」と読んだりしますが、まさにそれです。

哲人木庭先生が、無知な生徒たちとの対話によって、無知に気づかせる。とても刺激的な授業でした。

今となっては昔のことで、記憶もかなり薄れてきてしまっているのですが、木庭先生の授業で強調されていたのは、「法は徒党を解体し、徒党に属さなくても生きていける世界を実現しようとした」ということでした。

「徒党」は「コミュニティ」です。

法のない世界については、マルセスモースの『贈与論』で、かなり詳細に書かれています。

この『贈与論』も、めちゃんこおもしろいんですが、『贈与論』で描かれているのは、法の支配が出来上がる前の「弱肉強食」の世界です。

つまり、強者は弱者に支配されてしまう世界が描かれていて、それが、この人類の歴史上、間違いなく存在したということが大切なんですが、人間社会における「強者」と「弱者」とは、「強い徒党(コミュニティ)」と「弱い徒党(コミュニティ)」を意味します。

弱肉強食の世界では、強いコミュニティに属すことが生存戦略上必須です。シンプルに、弱いコミュニティに属していると死ぬからです。

過去の人類は、自分の属するコミュニティに生殺与奪を握られてしまっていたわけですが、それを人類の歴史上初めて覆したのは、ギリシア及びローマで確立した「法の支配」です。

ギリシアやローマは、確かに奴隷制度に支えられていましたが、しかし、コミュニティによって左右されない法的な地位(「占有」と呼ばれます)が認められていました。

この「占有」や「徒党(コミュニティ)の解体」が、ギリシアやローマの演劇で描かれていて、そんな演劇を題材に、↑の『誰のために法は生まれた』は話が進んでいきます。

法によって、「強いコミュニティに属さなくても生きていける」世界が誕生したわけですが、しかし、昨今、「コミュニティへの回帰」が叫ばれています。

人類(「ホモサピエンス」という種)は、法が生まれる前の世界(コミュニティの強弱が自分の生存を左右する世界)で進化を遂げてきたので、徹底的に社会化され、自分がどのコミュニティに属しているか、そして、そのコミュニティ内でどう振る舞ったらいいか、どうすれば自分の属するコミュニティが強くなるか(ひいては、自分の生存確率が上がるか)、を本能的に気にします。

この本能は、コミュニティへの回帰が叫ばれている現代で、きっと役に立つんだと思いますが、ただ、コミュニティへの回帰が、最終的に弱肉強食世界へ人類を誘ってしまうのを、僕は危惧してやみません。

進化の歴史を考えれば、人類は、簡単に「弱肉強食の世界」に戻ってしまいます。そっちのほうが、本能に忠実なので。

中国や韓国は、国をあげて弱肉強食の世界ですが、この日本だって、「強者が勝つ」というのを目撃したことがある人は多いでしょう。

強者が強者たりうるのは、強いコミュニティに属しているからです。人の強さは、コミュニティの強さとイコールです。

僕は、コミュニティへの回帰が、弱肉強食の世界への回帰とならないことを願ってやみません。

ただ、民主政が正義とされる現代では、「法」は、国会の議決を経た「法律」と同義とされてしまっています。

国会こそ、派閥が支配する弱肉強食の世界で、そこで議決された法律が現代社会を支配しています。

民主政も古代ギリシアで生まれ、法と切っても切れない関係なんですが、しかし、民主政は、徒党の解体を実現する法を脅かす存在でもあります。

徒党が支配する民主政においては、常に、弱肉強食の世界へ後戻りする可能性があるんですが、にもかかわらず、コミュニティへの回帰が叫ばれていると、さらに、弱肉強食への後戻りが加速する気もします。

人間は、本能的にコミュニティを求めます。

しかし、コミュニティは「しがらみ」でもあり、自由への楔となってしまうことは、皆さんもご存知のとおりです。

コミュニティへの回帰は、その前提に、「法の支配」が必ず必要です。法の支配を知ってしまった僕は、法が支配しない弱肉強食の世界へはぜったいに戻りたくありません。

「法の支配」とは、コミュニティを維持するためにどれだけ必要だとしても侵せない、大切な価値が個人にあると認めることです。

例えば、コミュニティを維持するために、若い女性が生贄に捧げられてきた歴史がありますが、それを認めないのが「法の支配」です。

コミュニティでは侵せない、個人の価値があるわけです。

そんなの当たり前に思えますが、しかし、徹底的に社会的な生き物である人類は、コミュニティを維持するためにグロテスクな行動に出ることがあるのは、歴史を見れば明らかです。

人類が生み出した「法の支配」を、ぜったいに忘れちゃいけない。

古代ギリシア、古代ローマが生み出した「法の支配」を、僕はいつまでも受け継いでいきたいなと思っています。

それではまた明日!・・・↓

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