“帰る”

ルドヴィカは東京都出身だ。岩手県へは大学を受験し、初めての一人暮らしで移住、数年暮らした。(大学がばれてしまう……)
親戚は3親等まで一同皆電車で30分圏内で、受験期に入るまで一人で東京・神奈川間から出た事すらなかったから、田舎に憧れが無かったといえば嘘になる。
大学を決めた一番の理由は大学パンフレットから溢れる海と生命に対する敬意と愛情だったが、親族の支配から逃れたい気持ちも大きかった。
そうやって、初めて”私が私として生活した場所”としての認識が強いのかもしれない。
あの場所には、とても愛着がある。

よく「田舎は閉鎖的で余所者を嫌う」と言うが、少なくとも私が暮らした地域はそうではなかった。
勿論、無礼な学生も居ただろうし、かなり御目溢しをしてもらっていただろうとは思う。
それでも、その地域に“学生”という存在が根付いていたのは間違いなかった。
地元の方々は、私達を孫みたいに可愛がってくれたし、私達も自分のじいちゃんばあちゃんに接するのと同じ気持ちでそれに応えた。
アルバイトはオーナーが賄いを作ってくれるものが多く、自炊に追われる学生の生活を潤してもくれた。
漁港に行けば「学生さんだろ?」と言いながら、魚やホタテやサンマを分けてくれる漁師のおじさんたちもいた。
珍しい魚も上がれば分けてくれたので、たとえ食べられない魚でも、研究室に持って帰ってみんなで観察したり解剖したりした。
私たちは豊富な海の生き物と地域の人に守られて生活していたのだ。

もし、来る学生が根っからブランドと流行り物が大好きなキャピキャピ集団だったら、娯楽の無さに数ヶ月持たずに息絶えていたと思う。
だが生憎というか然るべくというか、そこは学生、みな程度こそあれ理系の“生物オタク”集団だ。
おしゃれなモールも流行りのカフェもテーマパークもないが、海や山でもやりたいことはたくさんあったし、たまに友人と”マクドナルドを食べに行く”という名目でドライブに行くのは充分に楽しかった。
実家はそれぞれ別の場所あったが、実家から戻る時に「帰る」と言う子が結構いて、私も実家の人間からよく「帰るってお前、こっちが実家だろうが」と言われていた。
だが、まごうことなく、あの場所は「帰るべき場所」だったのだ。
私たちはみんなあの場所が好きだった。
最後の年、現地就職ができなかった私は、いざ去ることになって荷物をまとめながら、人生で初めて、寂しくて泣いた。
卒業した後、また新しい土地で仕事に就いた私だったが、いつも新しい土地で思い返すのは東京ではなく岩手だった。
同じように郷愁に駆られる友人と連絡を取り合っては「次に帰れるのはいつだろう」と”故郷”に帰りたい気持ちを語った。
友人達と休みを合わせられず、2日以上の休みが取れなかった私は、結局卒業後1年以上、帰ることができなかった。
「休み、取れなかった。取れたら絶対連絡するから、一緒に行こう。大丈夫、逃げるわけじゃないよ」
そんな風に言い合っていたのを、今は悔やむばかりだ。

2011年3月11日14:46
私は岩手県からは遠く数百キロ離れた地の惣菜屋で仕事中だった。
私が居た地域での揺れは4。
吊り看板が落ちないように押さえる先輩、軽いパックが崩れて落ちるのに気づいて受け止めるパートのおじさん、フライヤーの油が跳ねていたのでおっかなびっくり元栓をゴム長靴で蹴って閉め、パートさんたちとほっと胸をなでおろす。
震源地はどこだったんだろうか、と思いながら仕事を続けた。
店長と副店長が、休憩室のテレビで情報を見てくれていたので、できることから作業を再開した。
比較的揺れが大きく感じたが、けがをした人もダメになった商品もなさそうだった。「いやぁ、眩暈かと思ったら揺れてたわ」と言うお客さんと笑いあった直後に、店長が入ってきた。
「ルドヴィカ、震源地、お前の大学のあたりだぞ」
一瞬頭が真っ白になった。

数百キロは離れている場所で大きな揺れを感じたのだから、極めて大きな地震だというのは予測がついた。
現地には、卒業せずに残った院生や先生たちがいる。お世話になった人たちも。

あの時、電話やメールは使えなくなる(各個人での安否確認は、確認される側の携帯電話の電池を浪費し、ライトの代わりに使えなくなる等の生命線に関わる可能性がある)と判断した同期卒業生が、間髪入れずにmixiで安否確認のスレッドを立ち上げてくれた。
おかげで私たちは直接連絡せずに一部の人間の安否状況とそこから被害状況を推察でき、精神的にも落ち着くことができた。
が、それも24時間後には目新しい情報は無くなっていた。
最終的に(これは2年ほど経ってから知ったのだが)、後輩と、先輩と、同級生が、一人ずつ亡くなっていた。
卒業してから会わなくなった人が多いせいか、今でもまだ実感がない。
そしてこれも少し経ってからになったが、友人と教員の殆どと、お世話になったガソリンスタンドのおじさんおばさんと、アルバイト先のママさんパパさんは、人伝に無事であることを確認した。
大家さんと大家さんのご家族は、連絡も取れていないままだ。

大学の関係者以外の人、具体的には親族に会うたびに「良かったわよね、卒業していて」と言われた。
言われる度に、やるせないような、ぶつけられない憤りで苦しかった。
この人は……大事な人やお世話になった人が、例えばだが、自分と一緒に旅行とかに行く予定で、自分だけ熱が出て行けなかったとする。また、そのうち一緒に行こうな、と見送った人が飛行機事故で亡くなったとして、悲しんだり後悔している横で、笑顔で「よかったね、あなたは乗っていなくて」と言われて、一体どう思うのだろうか。
何が、良かったのだろうか。
命が大事だという理屈はわかる。
あなたが死ななくてよかった、と言っているのもわかる。
けどそれは。それは、あなたの都合じゃないか。
私は失ったのに、何が「良かった」というのか。
同意を求めるな。良い訳があるか。
死んだんだぞ。なくなっちゃったんだぞ。戻らないんだぞ。
まだ雪だって降るし道路が凍る時期だ、これから凍死する人間も出るだろう。
船は家と一緒で、人生をかけてバカ高い借金をして買っている人も多いから、自殺する人が出るのも予測できる。
間違いなく、まだまだこれから死ぬんだよ。
何が「良かった」んだよ。勝手に終わらせてんなよ。
そんな気持ちで叫びだしたくなることがあった。
というか、口にも出した。
けど、口に出したところで全く理解されなかった。
もしかしたら、私がおかしいのかもしれない。
少なくとも、言っている当人達からしたら、憤っている私は変人だろう。
宥めるように「そうよね、つらいわよね」と言ったそのすぐ後に「でもよかったわよ、あなたは卒業していて。そうでしょう?」と言われた。
だから、もう2回目からは機械的に「そうだね、よかったよ」と返すようになった。
そう返せば「そうよそうよ、よかったわ」と安堵したように皆笑顔を返す。
そして、いかに停電で自分達が大変な思いをしたかを話すのだ。
それ以上、話を続けてほしくなかったし、続けても聴きたくなかった。
そんな風にじわじわと傷つけられるのに耐えられるほど、この時はまだ、日数が経っていなかった。

震災から3年、その時勤めていた会社を辞めるまで「帰りたい」という気持ちと「見たくない」という気持ちがないまぜのまま過ごしていた。
3年後、「帰りたい」気持ちが勝って、帰ることにした。
ブラック労働だった会社を辞めて、身体が空いたこともある。
友人を誘って「帰る」ことにした。

3年程度ではまだ整備が全然進んでいなくて、何百回と通った道のはずだったのに、覚えが無さ過ぎて道に迷いかけた。
それもそのはずだった。3年前の時より、道の高さが大きく変わっていたのだから。
道路の脇の平地から、覚えのある建物の2階部分が顔を覗かせていた。

思い出のほとんどが無くなってしまっていたのは言うまでもなかった。
私の部屋があった場所は土台ごと流され、且つ半分河川敷になっていた。
水門は波で周辺の道路ごとぶち抜かれて、抉れた道路の端から浜を見下ろすと波の高さを実感せざるを得なかった。
消波ブロックが家だった場所の近くまで流されていたし、湾の形が変わって、花火をしたことがある浜辺は水の底になっていた。
貴重なファーストフード店だった陸前高田のモスバーガーも、その近くにあった博物館も、泥の下に埋もれていた。

残っていたものもある。
母校は、ほとんど無傷だった。
無傷と言うと語弊がある。再開できるような状況ではないのでキャンパスは移転していて、保護者の反対の声が大きく、もう学生が戻ってくることはできないし、建屋に大きな亀裂も入っている。
けれど少なくともほとんど記憶のまま残ってくれていた。今は、漁師さんの網干場などに、なんとか活用してもらってるようだ。
卒業式を挙げた公民館も、残っていた。こちらも無傷では決してない。
二階部分まで波が来たらしく、中はがらんどうだった。
当時は、つぶれた車やなんかを撤去する際に公民館の駐車場を瓦礫置きにしたという。
駐車場にはアスファルトを抉ってその時についたであろう無数の痕が残っていた。
それでも建屋の原型が残っていたので、自分や先輩たちの卒業式の光景と重ね合わせて思い出すことができた。
山の上にあった地元の温泉旅館は残っていた。これは本当にうれしかった。
なんと昔のままの姿で、営業していたのだ。

私たちは数日、当時の生活をなぞるようにして、失ってしまったものと記憶のまま残っているものを確認しながら過ごした。
それが私たちなりの気持ちの整理の仕方だと思った。
きちんと、”帰るべき故郷が無くなっている”事実に向き合う必要があったのだ。

3年後に訪れたのを最後に、車を失い、職を変えて、友人もそれぞれ仕事や結婚で遠く離れてそれぞれの生活にかかりきりになり、あっという間に7年もの月日が慌ただしく過ぎてしまった。
3年後に訪れて以来、今まで無意識に岩手に「帰る」と言っていたのが、岩手に「行く」になってしまった。
震災の傷跡を自分の目で見て回ったことで気持ちの整理はついたが、「帰るべき故郷を無くした」と無意識下で認識してしまったのがやるせなくて、今は意識的に「帰る」と言い続けている。

私は被災者ではない。
でも、全く無関係でもない。
どちらの立場でもなく、きちんと寄り添うことはできないかもしれない。
それでも、岩手は今でも、私の”故郷”として心の大事な場所にある。
また「帰る」際、たくましく復興している姿が見られればいいと思う。


#それぞれの10年

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