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神秘音楽の父 作曲家 千億祥也 物語

初めに読むこと【noteに投稿する私の記事等の著作物の閲覧・引用及び利用・実践等の注意事項】(2023年5月25日更新)







=この物語は千億祥也氏の創作活動の事実に基づくフィクションです=


序章 出生図 


 千億祥也の芸術は 猫の居る小さなマンションから生まれた。残念ながら、 その猫は 現在 生き延びてはいないのだが、仕事机には どう云う理由だか 若い捥ぎたての檸檬レモンが一個、絶やされずに置かれていた。千億祥也の芸術活動の黎明期に 日々の作曲で使ったであろう楽器の類は この酸味の強い鮮やかな紡錐形の果実と、妖しく愛らしい仔猫の二種を除いて私は知らない。まことに 千億の芸術が金属音に近い美しい薫りのする青い檸檬と、おだやかに汚染的な Pet の悪臭が混ざり合う密室から生まれ出たと云う異変は 私にとって大変納得のゆく話だ。しかしながら、当時、千億が頻りにさわいでいた芸術が 1984年の秋、突然 ❝ 音 ❞ に鳴った時は 私にとって愕き以外のどんなものでも勿った。その愕きの印象は 正直な処 ❝ 音楽 ❞ を超えていると思った。

 檸檬は 精油を発散して猫の Dust をとおざけるのだが、猫にとっては、檸檬こそ 毒が蓄積して 砂漠で腐っている生肉なのだ! 調和を完成させるどころか、千億には 嫌いな者同士を一緒にして置く 不思議な癖がある。こうした 結論がえない対位法的な因襲は 1985年の夏まで続くのだが、自己の作風の弁明のため、千億自身が 音楽以外の異なった分野(教育や物理学など)の専門家から 幾つかの好意的な Messages を集めていた他に、この時代の斬新な作曲の試みに対して、熱烈な支持の声を揚げる鑑賞者の耳に届くTrend は すくなくとも 2009年まで 四半世紀近く起きていない。

 20世紀の初頭、青騎手(ブラウエ・ライター)の画家たちが 絵画から対象を剝ぎ取った時、世論の趨勢が凡そ批判的なものであったように 恐らく千億の芸術活動も このような批判を 万事、覚悟して挑んでいたのだろう。ところが、現実は 当たり障りない社交辞令や 従来の音楽の定型を 退屈に繰り返す Comments だけであった。こうした顛末は ❝ 称賛にも批判にも値しない芸術 ❞ を意味する。それでも、私はこの偉大な神秘音楽の歴史的出生を観た一人の芸術家として 敢えて声高に宣言して置きたい。❝ 今日の音楽が棄て去らなければならない重い荷物に圧し潰されようとしていること ─── 私たちの精神に馴染んだ昔の人々の理論と学問を 徹底的に排斥しようとしていること ─── この二つの世俗的な 現代音楽の退廃が 彼の理念の引き鉄をいたのだと思う ❞    

 私たちの眼に見える世界が 対象無しには考えられないように 私たちの耳に聞こえる世界もまた 対象無しには在り得ない。
 しかし、近代絵画は この眼に見える世界の対象を 美事に打ち消して了った。カンディンスキー(Wassily Kandinsky,1866-1944)のコンポジション、クレー(Paul Klee,1879-1940)のツァイヘン、ミロ(Joan Miró i Ferrà,1893-1983)のピクト・ポエジーなど、画家たちは 既に150年以上前から 対象に代わる有力な Forme の象徴を 哲学的にみつめていた。



 それでは 音楽はどうであろうか? ─── 音楽の場合、絵画と違って 時間的な発展・継起・運動を 無視して成立する芸術ではない。作曲家が音を捉える瞬間は、画家が形態を捉える瞬間に等しい Phenomenon (特異な出来事)であり、択ばれた音は 一つの音として存在するだけで劇的なのだ。ところが ❝ 音 ❞ は 消えなければならない。もし、音楽が瞬間の連続の中でしか存在しないと云うなら、作曲家は 音の組み合わせの問題にのみ始終するだろう。つまり、新しい音が生まれるためには 嘗て生まれていた音が消えなければならない。朧気な束の間の幻影のように その音が消えて了うからこそ、また新しくその音を再現する好機を得るのである。

 しかし、一度 演奏が終わった途端に 私たちは 非常に長い General pause(総休止)を押し付けられるのはどうしてだろう? ここまで来て ❝ 本統に 音は消えなければならないのだろうか? ❞ と云う疑問が、音楽の肯綮こうけいあたる所在に眠っている。千億祥也の創作ノートに『 消えていく音に対しての烈しい疑い 』と 記された覚え書きがあるので引用したい。
  

 「 ピアノと云う楽器は 何か得体の知れぬ 芸術上の課題を抱えている。何故なら、ピアノの音は消えない。最近、そんな Phase modulation(位相変調)に気付いた。─── 私は 消えていく音に対して烈しい疑いを持っていた。音は瞬間の生成であり 瞬間の死である。ちょうど創造の意識に触る空間で 無限の回転があるように、その音が死ななければ ❝ その音自体 ❞ が生まれない。つまり、音の連続性が すべての音楽の母胎になっている。その母胎から Field (音場)を完全に独立させるためには、一つの ❝ 厳しい音 ❞ が必要だ。それは 我々の意識の中で永遠に消えない 極めて明瞭な理念でなければならない。」







第1章 はじまり 

 
 はじまりは 1984年の11月14日午後2時31分、大阪府池田市の小さなホールに鳴り響いたノートルダム大聖堂の鐘のような音だった。舞台一面を覆う巨大なモニュメンタルアート『はっきりと赤い花』 (千億祥也 造作) が床に形成されている。当然ながら、全体像は 客席から えない。しかも、 チベット密教の砂曼荼羅のように 儀式(音楽会)の終演と共に速やかに取り壊されて了った。美術的な Framework の手掛かりになり得るかは疑問だが、次の は 千億の許可を得て 私が 非公式に模写しておいた『はっきりと赤い花』の縮図である。                        


千億祥也 造作 「はっきりと赤い花」1984年 / 西山弘一 複製画
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 ピアノ演奏による千億祥也作品の この音楽会は 第2回 日仏現代音楽作曲コンクールの開催に、千億が yell を送って献呈した ピアノ曲「風が木を折った」❝ Le vent a brisé l'arbre ❞ 素描 Op.38-a’と Joan Miró の絵画をモチーフに作曲した「メタモルフォーズ」❝ Metamorphose ❞ 素描 Op.38-b’をプログラムに含むピアノ・リサイタルである。ピアノ曲 ❝ Le vent a brisé l'arbre ❞ 素描 Op.38-a’と ❝ Metamorphose ❞ 素描 Op.38-b’は、2023年 現在、残念ながら一部の音源を見出せなかった。ただ、他の曲目については 2023年8月 から Bob Lady CHANNEL( note & YouTube )で 音楽会のリハーサルの情況や千億が自宅で収録した演奏がランダムに公開される予定なので、当時のプログラムをそのまま紹介しておく。


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 ピアノ曲 ❝ Le vent a brisé l'arbre ❞ 素描 Op.38-a’と ❝ Metamorphose ❞ 素描 Op.38-b’についてのリサーチの結果を話せば、前者は「自動演奏」の抒情性への偏りが、後者は「創造過程」の熟成への帰属性が顕著だ。神秘音楽は「自動演奏」と「創造過程」が 融合した楽式を必ず備えていなければならない。したがって、仮に当時の音源が失われていたとしても、これらの作品の価値が著しく損なわれるわけではない。むしろ、神秘音楽の楽式を決定付ける重要な二つの作曲技法を、未来の音楽家が修得するための作品のモデルとして、遠からず広く研究されるようになるだろう。

 「自動演奏」とは 千億が語るところによると ❝ 曲の創造過程としての音楽芸術の本質の表現を具体化する ❞ と云う作曲技法なのだが、所謂 音楽の構成を第一義的に考えて展開していく即興演奏とは根本的に異なると言える。何故なら、自動演奏は 曲の構成上の課題をすべて排斥して、音が物理的に変化していく Precise Definition を発信する。
 ❝ 音が物理的に変化していく Precise Definition ❞ は 一音一音に 特定し得る人物とか物体とか、空間における運動の軌跡だとかの प्रकृति(根本原質)の様相を観せたり、音色に 神秘的な対象や聖霊の活動を象徴する特別な効果をはたらかせたりしている。たしかに そう云う側面だけに限って言えば、自動演奏が समाधि (三昧あるいは瞑想直観)による 音の波動の描写性が高い事実は否定出来ない。しかし、私が注目したいのは 理念の瞬間の音を紡ぎ出すと云う 創造過程から、作曲家の ❝ 生きた音 (聖なる生命の音)❞ を直接体験出来る点であろう。

 であるなら、千億祥也の音楽作品において クラシック音楽の如何なる感動がその光を耀かせ、如何なる退廃がその影を落とすのか? 現代音楽の演台に立った 千億の音を聴く時、私たちは 既成の音楽に対して持ち続けている娯楽的な装いを 一切取り払う苦痛をいられるだろう。それはまるで、数学が苦手な人に無理やり数学の難題を押し付けるような遣り方だ。そうした遣り方は、ある意味で「美学的だ」とも言えるのだが、これほどまで 鑑賞者に聴く形態の芸術を ─── つまり、音創りへの参加を要求する音楽は 歴史的にも稀だと思う。なぜなら、自動演奏は 作品ごとに顕現する神秘の領域で、鑑賞者と共に 創造する歓びを分かち合う。この すべからく 音楽三分野(作曲・演奏・鑑賞)を一体化し、形成し、そして 作品を完成させる試みは、その後 千億が 2006年に《すべてが素晴らしくなる音楽シリーズ》で発信する「体験芸術」へと結実して行く Thema になる。



(続く)



© Japan copyright 2023.7.16 最終更新 Traditional Yoga Art Production












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