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「出てきた後悔をどう受け止めるか」〜介護の先に残るもの

今回は先日の最後にちょっとふれた、親との関係性を見つめ直したら出てきた後悔についてちょっと書いてみる。

3年前父親が亡くなってその半年後に母が亡くなったのだけれど、実はその少し前、父親に「(実家に)帰って来れないか?」と言われたことがあった。その時はまだ今のように関係性を深く掘り下げたり、そもそも全ての問題の根っこがそこにがあるなんて思ってもいなかったし、何より全ては「他人のせい」だと思っていた。特に父親に対しては「自分の人生は親のためにあるんじゃない!。今まで何もこちらの言う事を聞いてくれなかったのに何なの?」と言う思いがあったから、結局それは受け入れることをしなかった。けれども本当は心の中で、私は私の人生を生きるのだ!という気持ちと申し訳ない気持ちとが常に「戦っていた」んだと思う。


それにしても介護は、想像以上にキツい。それまでの積み上げが全て無になるかも知れない焦りとこのまま放ってはおけない気持ちのせめぎ合い。よしんばたとえ親を施設に入れ物理的に楽になったからとしても、ハイそれで大丈夫ですみたいな単純なものでは全くなく「いつ何時」という心の引っ掛かりからは到底逃れることはできないしその精神的負担はとても大きい。特に、自分の親であればなおさら、日に日に弱っていく姿を目の当たりにすることは、とてつもなく辛いものである。そしてこれは実の親を介護して痛感したことであるのだけれど、何より介護が一番やるせないのはその結末が必ず「お別れ」であると言う事なのだ。そのお別れによって、自分自身が解放されると言う究極の手放し修行とでも言うべきものなんである。

そうして辛い介護の中でも最後まで「親への反発心」が消えなかった私は、父は親の願いを受け入れずに生活の基盤は東京のまま、母が亡くなる3ヶ月前までは行ったり来たりでやっていた。親との関係性を見つめ直した今思うことは、まず愛は充分過ぎるほどもらっていたのに「自分の願いを受け入れて貰えない」と勘違いしていた自分がいたこと、そして考えてみれば父親が帰って来れないか?と聞いたあの時、それ自体がもうそれまでの父親ではなかったのだと今なら分かる。やっぱりもっと早く実家に戻ってあげた方が良かったかもしれない、もっとやれることがあったのかも知れない、なんて薄情な娘なんだろうか。と今更ながらズーンとした後悔がしばらくの間胸を締め付けていた。

そんな時、あるネットニュースで神田正輝さんを見た。ご存知の方はご存知であると思うが、神田さんはお嬢さんを亡くされてからとんでもなく疲弊され、今なおお辛い気持ちが伝わって見ているこちらも心が痛くなる。それを見た時、なぜか心からの腹落ちの瞬間がやってきた。あぁ自分は「親より長生き」ができたことでいいんではないかと。元々レインボーベイビーであった私なのだ。ちゃんと生まれて来れて親を看取った。それだけで充分なんではないかと。


結論。もし、今介護で大変な人、そして後悔の念で押し潰されそうな人がいたら、この言葉を贈りたい。

後悔しない介護なんてありえない。

あなたは、親より長生きした。

もうそれだけで充分。


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