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映画『アフターサン』 眼差しの温度

昨日、NHK朝のテレビ小説『虎に翼』の寅子の「いやだ」の一言にどうにも心が揺さぶられてしまった。

そして衝動の紐を手繰り寄せていくと、シャーロット・ウェルズ監督の映画『アフターサン』を観た時の感覚に辿り着いた。

『アフターサン』は、20年前に父と2人きりで過ごした夏休みの思い出を、現在の娘の視点から綴るヒューマンドラマ。

11歳という思春期真っただ中のソフィは、離れて暮らす31歳の父カラムと共にトルコの鄙びたリゾート地を訪れる。太陽が照りつけるなか、カラムが手に入れたビデオカメラでお互いの姿を撮り合いながら、2人は親密な時間を過ごす。それから20年後、当時の父と同じ年になったソフィは、その時撮影した映像を振り返りながら大好きだった父に想いを馳せていく。

(作品公式サイトより引用)


第三者の立ち位置から見る、誰かから誰かへの眼差しはどうしてこんなにも記憶に焼きつくのだろう。

画面の中で、鬱蒼とした会議や集会の席で、好きな人が好きな人へ。ただ相手に向けられる、無意識に感情が込められた眼差しは時に言葉よりも遥かに雄弁だ。

目を見るというのは自分の気持ちが漏れ出ていそうで、相手が押し込めた感情も透けて見えてしまいそうな恐ろしさがある。
それはまるで生身に触れるようだと気づくと途端に怖くなり、目を見て話すことができなくなる。

カラムの眼差しやソフィに対する仕草、特に彼女に触れる時なんかは、自分が心許した恋人に向ける眼差しとか手つきにすごく似たものを感じた。

愛しく大切で未知な存在を、その関係をとにかく壊さないように触れる。彼女が痛い思いをしないように日焼け止めを塗り、夜は用心深くアフターサンローションをコットンに浸し、頬の産毛をなぞる。

母親が時折見せる眼差しにも似てると気づく。いまだに私はいつもそれをつぶさに感じ取り、照れ臭なりく振り払ってしまう。

しかし確かに心許した相手からそういう眼差しをもらってきたし、触れられてきたことを思い出す。

作中、不安定なカラムの側で、ソフィ自身の眼差しは自分(に関する、主に異性のこと、思春期特有の。)に向いていて、子どもらしく、ちょっとませながらも純粋に’’この夏休み’’を楽しんでる様子が感じられてよかった。

離れて暮らす父親ではあるけれど、その存在は会える距離にある事を当然だと信じて疑わない様子。そもそも考えつきもしないという程。だからこそ彼女はその眩しいような、澄んだ眼差しをカラムには向けない。

最後のシーンは、ソフィを空港で見届けるそのカラムの眼差し。
彼は空港の送迎エリアから踵を返し、ディスコミュージックが充満する部屋へと入っていく。
あるはずの轟音が耳に入ってこないほどの、彼自身が発する危うさにどきりとする。

その後に大人になったソフィと思われる女性がソファに体を預けて無気力に11歳の夏、彼女が映されたムービーを見ている。その時、多分、カラムははこの世を去ったのだと直感する。

あの夏の時間、彼女に向けられた眼差しは愛おしさと、「これが最後になるかもしれない」っていう気持ち、自身の今後についての覚悟みたいなものをじわじわと加速させていたように思う。

あれもこれもと欲張ってシャッターボタンを押してしまうように、彼女がいる光景を捉えるその眼差しは熱い。


私は私が誰かからもらった眼差しを、記憶の中でなぞる。

あの人はいつも、私がわがままを言って困らせるような時、決まって口を僅かに振るわせながら水分を湛えた瞳で私を見つめていた。

眼差しの記憶は、後から蘇る。思い出をなぞるときにほの温かいのは、誰かの眼差しの温度だ。

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