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3.お前は暇を潰すな(下川レポート)

こんにちは、慶應義塾大学4年・SMOUT編集部下川町支局レポーターの小川功毅です。(企画の概要:https://smout.jp/plans/7329#project-report-8332

私の下川町での滞在記録にとって、絶対に欠かせないのは「とにかく暇がなかった」ということです。多くの人と出会い、様々な話をし、色々な場所へ行き、遊んで飲んで語り合いながら暮らしていました。予定はほとんどパンパンで、いつも忙しく下川町を満喫していました。

そこで、今回は「お前は暇を潰すな」という自戒を込めたタイトルで、暇で退屈な日常との決別を図ってみようと思います。


・暇を潰す私

私が「暇を潰したいなぁ」と思うとき。それは、何の予定もなく、何もする気が起きず、しかし時間だけはあり、無気力な退屈に苛まれているときです。なんとなくドラマや映画を見たり、YouTubeで動画を見たり、昼寝をしたりします。そうやって気怠い時間を消費することで、私は暇を潰します。

現代社会において、YouTubeやNetflix、スマホゲームなど、1人で、それも部屋で完結できてしまうサービスに満ちています。それらはカタログのように並べられ、「これ好きでしょう?」と言わんばかりのレコメンド機能によって考える暇もなくコンテンツを摂取することができます。こうした産業のおかげで、私たちは退屈に苛まれる間もなく、いとも簡単に暇を潰すことができるのです。

こうした現状を、國分功一郎さんは著書『暇と退屈の倫理学』において、以下のように危惧します。

産業は主体が何をどう受け取るのかを先取りし、あらかじめ受け取られ方の決められたものを主体に差し出している。(中略)「これが楽しいってことなのですよ」というイメージとともに、「楽しいもの」を提供する。(p.22)

暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない。そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提供する。(p.23)

だが、人間はそれほどバカではない。何か違う、これは本当じゃない、ホンモノじゃないという気持ちをもつものだ。楽しいことはある。自分は楽しんでいるのだろう。だが何かおかしい。打ち込めない……。(p.28)
國分功一郎「暇と退屈の倫理学」太田出版 pp.22,23,28

では、私たちは暇と退屈にいかにして向き合えばよいのでしょうか?


・下川町での暇のない暮らし

下川町での暮らしは、暇とは無縁なものでした。毎日何かしらのイベントがあり、新しい発見があり、出会いがありました。
このように刺激を感じるのは、短期の滞在であるからかもしれません。3週間という期間は旅行というには長ずぎるし、生活というには短すぎます。しかし、私は、この町に住んだら暇をしないだろうなという確信がありました。それは、「人」と「自然」です。

まず、「人」ですが、前回のレポート〈2.馴染もう:移住したてのマインドセット〉でも述べた通り、とにかく人との交流がありました。たくさんのお誘いがあり、様々な人と出会い、多くの時間を人とともに過ごしました。

都市の規模は、あからさまに大は小を兼ねません。東京23区と同じ面積に約3000人にしか住んでいないにも関わらず、東京にいるときの数十倍もの人に会いました。
下川町では、〇〇パーティと称して事あるごとに集まり、もはや事がなくても集まります。また、いろんな活動があちらこちらで動いており、興味はあれば気軽に参加できます。さらに、人やコミュニティを紹介していただき、その紹介された人からまた新たに紹介され、その人からまた新しい人を紹介してもらい……という紹介の連鎖が止まりません。このような交流に満ちた暮らしは、まさに暇とは無縁です。

次に、「自然」として、環境や四季を身体で感じる、ということを挙げたいと思います。すぐ近くに山があり、川があり、森があり、鳥が鳴いています。ふらっと散歩に出るだけでも、豊かな自然を一身に受け取ることができます。
また、春先には山菜が採れ、夏には夏野菜や川魚が、そして秋の野菜が実り、冬にはジビエをいただきます。土地がしっかりと自然に根付き、自然に根付いているからこそ直接的に四季の影響を受け、季節のうつろいを身体で感じることができます。(こうした下川での暮らしぶりについては、また後日記事を公開します。)

ただスーパーで簡単に買い物を済ませる日々は退屈かもしれません。しかし、山に出て山菜を採りに行ったり、川で魚を釣ったり、畑で野菜を育てたりしたらどうでしょう。時間や手間はかかるかもしれませんが、一つ一つの体験が楽しく、また自分の手で採れば味もひとしおでしょう。

現代社会は、私たちの手間を省いてくれるサービスに満ち溢れています。スーパーに行けば肉も野菜も手に入り、総菜屋さんに行けば調理をする手間もなく、Uber Eatsは外出の必要すら省いてくれます。食以外でも、Amazonを使えばクリック一つで大抵の物は手に入るし、イマドキのトイレは流す手間すら省いてくれます。その代わりに生まれた暇はなぜか持て余され、わざわざ暇を“潰す”ようになってしまっています


・出来事は眼前に広がっている(はずである)

しかし、人や自然というのはそんなに難しい話ではなく、それらはどこにいたって私たちの前にあるはずです。ここ東京にだって空は広がっているし、花が咲き、木が茂り、川は流れています。
もちろん人も、ごまんといます。人はたくさん居るはずなのに、繋がりは希薄化し、なぜだか寂しい人が増え、孤独に満ちています。みんな出会いや繋がりを求めてやみません。

人や自然は、いつも私たちの眼前に広がっています。外へ出れば必ず何かの自然が見つかり、公園や山や渓谷にも行くことができます。また、家族がいたり友達がいたり職場の同僚がいたりするでしょう。SNSを開けば、離れた知り合いや、昔の友人にも連絡を取ることもできます。私たちは、私たちのコミュニティをもっと豊かなものにできるはずです。
ほんの少しでも人や自然と友好的に接するだけで、日々はラブリーなものに映るでしょう。勇気を出して誘ってみたり、たまには本音で喋ってみたり。そんな誘いを待っている人が、私たちの身近には多くいるかもしれません。過密で孤独な都市・東京を、少しでも面白くするのは私たち自身です。

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