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いかのおすし③ 【朝読書】

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《美桜ママ》

車を降り、アパートの外階段を軽快にあがって一番奥の玄関前に立った。
インターフォンを鳴らしてから鍵を回し、そっとドアを開ける。でも中からチェーンはかけられていなかった。

んもう。必ずチェーンしろって言ってるのに。
 
勢いよく扉を開け、「ただいま」と声をかけると奥からいつもの「おかえりー」が聞こえる。
美桜はダイニングテーブルにプリント広げ、ちょこんと座っていた。
「宿題やってるね。えらい。でもチェーンかけとかなきゃだめだよ」
「うん。だってすぐ帰ってくるって分かってたから……」
「でーもー。それでも、かけなきゃなの」
言っている最中に美桜は「はいはいはい」と頷いて鉛筆を置いた。
「ママ、おやつは?」
口をつんと尖らす美桜に向かって、バッグからチョコパイを取り出す。
「じゃーん。シュウト君のママがくれたよ」
美桜は「やったー」と大袈裟に喜んでチョコパイを受け取った。
 
テーブルの上のプリントを見てみると「いかのおすし」とタイトルが印刷されている。
 
「今日の感想を書かなきゃいけないんだ。でもこういうのニガテー」
「どれどれ。『SNSはこわいから中学生になるまで使いません』……感想これだけ?」
私は目を丸くして美桜を見る。
「そう。だって何書いていいか分かんないもん。スマホ持ってないし。でもさ、すごく怖かったね。ママ、聞いてた? ストーカーの話」
 
美桜が怖いと言うのは、おそらくアイドルがインスタグラムにあげた自撮り写真の話。
小さな虹彩に写る景色からそのアイドルの住む駅を特定したという話だった。他にも、偶然うつり込んだマンホールの図柄や電柱の表示から居住地を特定されるとか、家族旅行に行っている最中に泥棒に入られるとか。興味深い話はたくさんあった。
 
あるにはあったけれど、結局怖いならSNSなんかやらなければいいのでは? っていう結論になってしまう。
子供たちよりママさん連中のほうがよっぽどSNS使っているけど。みんなどこまで気を付けてるのかな。
 
「ね。怖い人がいるから気を付けないとだね」
「うん。ママは『いかのおすし』ちゃんと覚えた?」
「もちろん。知らない人について『いか』ない、でしょ?」
私が胸を張って答えると「それから?」と聞かれて慌てる。
 
「えっと、『の』るなら飲むな。飲むなら乗るな」
「えぇー?」
「『お』は、押すな、駆けるな。『すし』は、おすし食べたい!」

ママ、全然ちがうじゃん、ギャハハーと笑ってチョコパイをぼろぼろ落とした美桜の頭をちょこっと撫で、洗濯物を取り込みはじめる。

「美桜、学校ではタブレットって使ってないの?」
「使ってるよ」
意外な答えがすぐに返ってきた。浅田さんも先生も使っていないようなことを言っていたけれど。
「ムシの図鑑見たりぃ、地図記号クイズやったりぃ、プログラミングとか」
「へぇ。そんなのやってるんだ。すごいね」
「話ししたじゃん」
美桜はちょっとむくれて足をふらふら揺らす。
「でもさ、このまえSDGsの調べものしてたときに、木村さんが全然関係ないユーチューブ見てたんだよ。そしたら先生がすっごい怒ってね。それからあんまり使わないの」
「あれ? 木村さんって、すごい頭のいい子じゃなかった?」
「それは木村アスカさん。怒られたのは木村ヨウスケさん」
ああ、とりあえずみんな「名字」に「さん」付けなわけね。
 
でもなるほど。
30人以上の子にタブレット使わせて、先生一人では管理しきれないんだろうな。最近は子どものほうがデジタルに強そうだし。
 
美桜にスマホを買ったら、どうだろう。
ヒナタちゃんのおうちのように、きちんとルールを決めて守らせることができるだろうか。ずっと監視できるわけでもないのに。
 
美桜がプリントをランドセルに仕舞いながら、ふと思い出したように言った。
「そういえばさー、このまえ学校の帰り道にこわい人が居たんだよ」
「えっ」
洗濯ものを畳む手が止まり、「いつ? どこで?」と尋問のような言葉が飛び出す。
「そこの。やまと公園の近く」
やだ。整備された明るい公園なのに。
「変なおばあさんがあとつけて来たの」
「え、おばあさん?」
「そう。6年の男子が逃げてったから、私と友香ちゃんも一緒に逃げた」
「なにそれ、どういうこと」
「知らない。なんか、男子がコワイとかクサイとか言ってた」

くさい? 

あの公園に浮浪者なんていたっけかな。ただ、昔ながらの住宅街だからおばあさんならたくさんいる。 

「近所のおばあさんが歩いてただけなんじゃないの?」
「知らなぁい。友香ちゃんは、道を聞きたかったのかな、って言ってた」
「道? 道を聞きたかったおばあさんなのに変なおばあさんから逃げた、だなんて」

怪しい人に追いかけられたわけでなくてホッとしたけれど、今の話を聞いたらお年寄りがちょっと気の毒に思えてきた。
 
そういえば、市の防犯メールの不審者情報にも似たようなことを感じた記憶がある。
 
――本日午前9時ころ、あさひ町内で小学生児童が男性に「どこの学校? 何年生?」と聞かれたという事案がありました。不審な人物を見た場合は……。
 
そのメールを見た瞬間、とっくに学校に着いているはずの朝の9時にランドセル背負った子供がふらふら歩いていたら、そりゃ近所の人は心配でそのくらいの声は掛けるだろうよ、と咄嗟に思った。
私だって以前、ちょっと遅めの時間に登校していた知らない子に声をかけそうになったことがある。
 
どうしたの? 学校まで車で送ろうか。
 
心底親切のつもりで喉まで出た言葉を飲みこんだ。そんなこと絶対言ったらダメ。
声に出したら、そのあと警察からの不審者情報を不審者である自分が受け取ることになってしまう。
 
――軽自動車に乗った不審な女の特徴、30代、セミロング、安物のTシャツ。でも……そこそこ美人。
 
 「ママ、なんでニヤケてるの?」
「やだ。にやけてた? もし道を聞きたいだけのおばあさんだったら、可哀そうだって思ってただけだよ」
そうだ。もしかして認知症だったのかもしれない。
「うん。でもちょっとコワイおばあさんだったよ。目つきもなんか……」
「こら。そんなこと言わないの。お年寄りには優しくしないと」
私は軽く美桜を窘め、タオルをしまいに洗面所に向かった。
 
自治会には参加しているけど、近所の大人やお年寄りの顔や名前を美桜はきっと分かっていない。
10年前、駆け落ち同然で家を出て親戚づきあいもしていないから、美桜の祖父母である私の両親のことでさえ「身近なお年寄り」ではない。美桜は色んな人に支えられて、多くの愛を受けて育って欲しいなんて思ってたのに。
まあ、自分が家を飛び出しておいて、そんなこと考えるのは都合がよすぎるよね。分かってる。
 
ソファに寝そべってマンガを読み始めた美桜を今度はキッチンから眺めていたら、今思い返しても仕方のない苦い思い出ばかりが頭に浮かんでくる。
 

 
信用金庫に勤めていた父は、いかにも昭和生まれの頑固おやじで、私が所謂「デキ婚」したいと言ったら良い顔しないことなんて分かってた。
同窓会で久々に会い、お酒の勢いでそうなって付き合い始めた彼。でも私は高校の時から好きだったから、ちゃんと結婚もしたかったし、当然赤ちゃんも産みたかった。
 
私の親に挨拶にいこうと彼が覚悟を決めてくれたときは、彼の髪や爪は綺麗なピンク色に染まっていた。明日黒く染め直すか、坊主にするからと本気か冗談か分からないことを言っていた日に、偶然ばったり父に会ってしまった。
 
想像以上に父は激怒した。
 
ピンク色なのは先輩の実験台になっただけなのに、美容師をしていると聞いただけで、なよなよしていて女っぽいと言い出した。
この時代にそんな偏見ある?
「こんな髪色どこにでもいるわ!」とハナから大喧嘩。
「よそは何色でもどこの馬の骨でも構わん。おまえの……そいつの話だ!」
馬の骨って。考えが古すぎてついていけない。

さらに後日、父は彼の家庭環境にもケチをつけた。
彼の実家で何があったのか私も詳しくは聞いてないけれど、養護施設に暫く預けられた後に祖父母にひきとられて育っている彼のことを「そういう家の子だから」と何の因果関係もないことをとやかく言い出した。

専業主婦の母は父のいいなり。同じ女である私の味方をしてはくれなかった。それがなにより悲しかった。
 
髪を黒く染めた彼は何度でも親に頭を下げに行くと言ってくれたけれど、私のほうがムキになり、籍だけ入れて逃げるようにこのアパートで二人きりの生活を始めた。
実家には、私とソリの合わない弟夫婦が同居していて、もう家族としての私の存在意義なんて残っていない。
 
それでいいと思っていた私が、幸せだった期間もほんの僅かだった。
彼の浮気に気付いてしまった。しかも相手は元カノ。
 
産まれてくる子のため絶対彼とは別れたくないし、いまさら実家に戻っても居場所はない。暫くは気づかないふりをして過ごした。
美桜が産まれてからも、彼は私と美桜に優しくしてくれていたけど、そのうち元カノは堂々と電話をかけて彼を呼び出すようになった。
彼は、浮気はしてないとは言ったけど、浮気かどうか、体の関係のありなしはどうでもよくなった。私より彼女が大切なんだって分かった。

というか、中学の時から付き合ったり別れたりを繰り返していたという年下の彼女、もはや私の方が浮気だったんじゃないかとすら思うようにもなってしまった。
 言い訳は何度も聞かされた。
彼女が小学生のとき、その父親が小さな金属加工工場の借金を残して自ら命を絶ったとか。
保険金で返そうと思ったのか、だけどそう上手くはいかず、かえって生活が苦しくなり遠い親戚の叔父さんに頼らざるを得なくなったとか。
工場は清算できたけど、その親戚が同居するようになってから彼女は高校にも通えず、精神的に不安定になっていったとか。
何度も死のうとしたとか。
叔父さんに奴隷のように扱われていたとか。
 
はい、そうですか。それで?
大げさな不幸自慢はもう結構。
 
――俺には彼女の気持ちが分かる気がするんだ。大切に育てられた美紀にはわからない。
 
呆れてものが言えなかった。
それを言われて、私は何と言い返すのが正解だったのか。

私はどうしていつも蚊帳の外なの。私とは一生分かり合えないっていうの。私の味方はどこにいるのよ。
 
元カノに呼ばれてイソイソと出かけようとしたある日、何もかも、目の前にある何もかもを壊してやりたい衝動がおさえきれず、彼をボコボコに殴りつけて叫んだ。
 
――なんで私じゃダメなのよ! なんで私には何も教えてくれないの! あの写真はなんなの。なんで私と寝たの。なんで籍入れたの。私の事なんか、ぜんぜん好きじゃなかったくせに。あっくんのこと、もう何もかも分かんないよッ!
 
暴れた勢いで、棚の上に飾っていた不安定なフォトフレームが床に落ちた。
ガラスが割れた鈍い音と、火が付いたように泣き出した美桜の声。その美桜の泣き声が、私を現実世界に引き戻してくれた。
 
冷静になれ、私。
 
深呼吸をして、美桜を強く抱きよせた。
この子に怖い思いをさせたらいけない。絶対に、この子を幸せにしなきゃいけない。
 
大丈夫。
美桜と生きていこう。ふたりで。
 
その日、美桜と一緒に泣きつかれて眠った。
翌朝、フローリングのガラスは綺麗に片付けられていて、写真の中の3人の笑顔は何に守られたのか無傷だったけれど、私がビリビリに破いて捨てた。
 
手荷物をまとめて離婚届を書いた。
用紙をじっと見つめて弁解もせずに判を押し、頭を下げてこの部屋を出て行ったのは、彼のほうだった。

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