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いかのおすし⑭ 【6時間目】

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《美桜ママ》

見知らぬ携帯番号がアンのお母さんの携帯番号ではないかと一縷の望みを賭けていたけれど。私がコールし続けるのを諦め、溜息をついた瞬間、画面に表示された名前に慌てた。呼吸を整える間もなく私は「中島篤弘」との通話ボタンを押していた。

ゆっくり、耳にあてる。
「もしもし?」
「あ、美紀。さっき電話くれた?」
中島の、久しぶりの低い声が耳の奥に響く。
この私の心臓の音が、あの時のような嫌悪感から来るものなのかどうか分からない。
とにかく、美桜は返してもらわないと。

「いま、美桜といるの?」
落ち着いて話を切り出そうと思ってたのに、いきなり本題を言ってしまった。
「え?」
明らかに動揺した声だと思った。間違いない。一緒にいるんだ。
「どういうつもりなのっ! 今どこにいるのっ」
怒りが爆発してしまった。
「ちょ、まって。今?」
「いま! どこ!」
美桜はどこにいるの。
「今、仙台。昨日から仙台にいるんだけど」
「仙台? なんでそんなところに美桜を連れて行くのよ!」
とにかく早く美桜を返して。
「ちょ、待ってよ。美桜はいないよ」
「嘘言わないで!」

そう叫んだ後にむせてしまった。むせて咳き込んで、芝生に座り込んで、ふと考えた。
公園にいた美桜が、今、仙台にいるだろうか。中島は……昨日から仙台に?

「どうした。美桜がどうかしたのか?」

あんなに中島のことを思い出して嫌悪感が湧き上がっていたのに、実際に彼の心配そうな声を耳にしたら、急に感情があふれだして言葉に詰まった。
「ど、どうかって。ど」
「どうした? いないのか?」
「あの……」
一緒じゃないの? なら、どこにいるの?

「美紀、大丈夫か?」
どうしよう。美桜は、どこなの。

「俺に、なにかできることあるか?」 
美桜を、私を、助けて。
あっくん。
 
優しかったころの、楽しかったころのあっくんの声に、ぎゅっと胸が締め付けられる。そうだった。あっくんは、ずっと優しかった。誰にでも。優しい人だった。
 
「公園じゃないのか。桜の咲く、公園」
え?
「トモカちゃんって友達と、よく遊んでた公園」
なんで、なんであっくんがそんなこと知ってるの。
「美桜が産まれる直前に、二人で桜を見た公園だよ。覚えてる?」
何言ってんの。こんなときに。そんなこと。
「ごめん」
私は何も言っていないのに、あっくんは突然私に謝った。
「実は、夏休みに何回か、そこで美桜に会った」
夏休みに? ここで?
「でも、俺が誰なのか言ってないし、美桜も分かってないから大丈夫」
何が大丈夫なのかよく分からないけど。
 
突如、美桜を叱った日のことを思い出した。
「もしかして、四つ葉のクローバー……」
「あー、そうそう」
こんな状況なのに、こんな状況だって知ってか知らずか、あっくんはちょっと笑った。
「もしかして、自転車の鍵を……」
私が思いつくまま口にすると、また笑いながら言った。
「そう。鍵を失くして困ってたみたいだから。だから、ごめん。つい声をかけてしまった」
 
なんなの。
あの時、太くてまずいパスタを食べたあの晩、私が美桜を怒鳴って叱った日。あのとき話していた「おじさん」って、あっくんだったの。

――でも……いい人だよ。

美桜がそう呟いた言葉も蘇った。
 
「美紀に喋り方がそっくりな子がいてさ、しかも友達にミオちゃんって呼ばれてて焦ったよ。そのまま隠れようかと思ったんだけど。隠れてずっと見てるのも怪しいし。はは」
 
笑うところじゃないんだけど。
 
「お盆休みに毎年花やしきに行くんだって自慢してて。浅草のトンカツ屋が知り合いだって」
美桜ったら、そんな個人情報までペラペラと……。
「ママが高校野球は必ず仙台育英を応援するとか。もう、それって美紀に間違いないじゃんって」
そう言って昔と同じように笑った。

だけど夏休みに数回会っただけで、それ以降は会ってないとあっくんは言った。もちろん、今も一緒ではないと。
「知り合いがさ。困ってるなら自分の店に来ないかって誘ってくれて。だから仙台に越すんだ。今日は契約に来たんだけど」
「仙台に? 今の、あなたの店は?」
 
元カノと籍を入れたらしい、自分の店をオープンしたらしい、という話は美桜が小学校にあがるときに高校の同級生から聞いていた。そしてその時、彼の夢だった「自分の店」を一度見てやろうじゃないかと、美桜を乗せて車を走らせたこともある。
道に迷って1時間近くかかり、美桜は助手席で寝てしまった。天気の悪い日だったからか、じめっとした田舎道にポツンと立った白壁の美容室は、おしゃれまでして向かう場所ではなかったと、船を漕いでいる美桜を起こさないよう、そのままゆっくり通り過ぎた。

通り過ぎるときに目に入った、壁に描かれた花の絵がなんとなく気になっていて。
「洒落た店名つけて。あんなド田舎で」
そう吐き捨て、アパートに戻ってからGoogleで調べた店名の意味が、一体どういうつもりなのだろうと、また私の気分を沈ませた。
 
その店を、手放すの。
 
「アキラとお義母さんにお願いされて、あそこに店建てたけど、お年寄りしか来ない場所だし」
「だからって」
だからって、なんだというんだろう。何を言いたいんだろう、私は。引き留めたいんだろうか。
 
「お義母さんも亡くなったし。あそこから離れたほうがいいと思って」
あっくんは急にくちごもった。
「アキラひとりを守るなら、連れて出た方が早いから。アキラを育ててくれた叔父さんがさ、ほら、話しただろ。ちょっとやばいって。叔父さんが海外にいたときは関わらないで済んだけど、去年からちょくちょく日本に戻って来てて」
 
「叔父さん」と言われて色々思い出した。彼が浮気していたころの話。全部、浮気の言い訳だろうと、まともに聞こうとしなかった。
 
中学のころ付き合ってた程度の彼女から夜中に電話がかかってきて「助けて」とか「一緒に居て」とか。そんなこと言われてホイホイ家を出て行くなんて妻帯者のすることじゃない。叔父さんに困っているなら彼女が警察とか役所とかに相談しなさいよ、と言ったこともある。
あっくんは、だから証拠を集めていると言っていたかもしれない。
でも、うまく行かなかったとも。だからやっぱり俺が守りたい、とも。
 
私が怒るたび、彼は、私が正しいと言った。
私が正しいことを言っていると彼は言うのに、彼は謝っているのに。それでも私の気は晴れなかったし、彼女を責める私のほうが悪い人間な気がして辛かった。そして私は離婚に向けて浮気の証拠を探し始めた。
 
 
「あの頃、ちゃんと説明しなくて悪かった。あの頃の俺はどうにかしてたと思う。自分のことも、アキラのことも、もっとちゃんと話せばよかった」
電話口で今更そんなことを言われても。
「美紀と、さ。同窓会で初めて話ができて、舞い上がって、だいぶ調子に乗っちゃって」
 
何? 何言い出してるの、突然。
 
「俺なんかと結婚しなきゃいけなくなったこと、すごくずっと申し訳なくて。引け目……みたいなもの感じてた」
 
は? 何言ってんの、ほんとに。
 
「あのときの俺は、なんていうか。それでも、憧れの美紀を自分のところまで引きずり落とすようなことだけは絶対に避けたくて。美紀はいつも強くて幸せいっぱいで笑ってて欲しいから。だから、俺と一緒にいて不幸になるより早く別れた方がいいんじゃないかって。ばかなんだよ。間違ってたと思う。ほんッとにオレ、無責任でバカだった」
 
「ほんとに、ばかだね」
 
それしか言葉が出なかった。
曇り始めた空から、雨が落ちて来たかと思った。芝生にしゃがみ込んでいた私のジーパンの膝にいくつもの水滴が落ちる。
 
私と一緒に居て引け目を感じていたなんて。考えもしなかった。
そんな必要なかったのに。
そんなの言ってくれなきゃわからないのに。

でも、私も分かろうとしなかった。何も聞かなかったし、本音も言わなかった。
私はただ、あなたと同じ季節を過ごして、同じ景色を見て、同じ道を歩きたいんだって。
そう素直に、甘えれば良かった。

ほんとに、ばかだよ。あなたも、私も。
 
 
「美桜、美紀にそっくりになったな」
「なにそれ。強いってこと? 怖いってこと?」
鼻を啜って聞き返すと、あっくんは電話口の向こうで「ちがうよ」と笑った。
 
「美桜のこと、すげぇいい子に育ててくれて。ありがとう」
 
やめて。あなたに、御礼を言われるようなことじゃない。
美桜は、私の子なんだから。
「あ、養育費は、仙台行ったら増やすから」
離婚後、ずっと続く毎月4万円の入金。何の取り決めもせずに別れたのに。すぐに止まるかと思ったけど今も貯まり続けている。いつか、美桜が使いたいときに使えるように。パパは、あなたのことをずっと大切に思っているんだよって伝えるために。

そんな程度で。たった毎月数万の現金で。父親の責任を果たしてるなんて思って欲しくない。

でも。
 
「ありがとう」
 
今まで言えなかった言葉を、やっとひとつだけ伝えられた。
 

私は曇り空を見上げて気持ちを戻した。
「ねぇ、アキラさんは美桜のことを知ってるの? 美桜と公園で会ったりしてないかな」
「いや、それはないと思うけど。生活圏が違うし、あんまり外に出ないし」
「美桜のことを憎んでいるとか……」
「それはないよ。養育費のことも分かってくれてるし。昔はよく、美紀さんの子に申し訳ないって、謝ってばっかりだった」
「そう……」
「前は一緒に店に出てたんだけど、ここ一年くらいは籠ってて。アクセサリー作ってたり、あとはずっとスマホみてる」
「今日は?」
「今日?」
「うん。その、友達の友香ちゃんがね、美桜は美容師の中島さんと一緒にいるって言ってたの。だから、てっきりあなたのことかと」
電話口の向こうで彼が絶句しているのが伝わった。
「なん……で、だろ」
「美容師の中島さんっていうのが、アキラさんかどうかは分からないけど」
「今日は、市民病院に薬をもらいに行くって、電話では話したけど」
市民病院といわれて、川の向こう側にある高い建物を見上げた。すぐ近くだ。
「薬?」
「ああ、その。精神を安定させるための。去年くらいからずっと調子悪いんだ」
「そう。あ、その。叔父さんって、いま日本にいるの?」
「え。聞いてないけど。どうかな。俺が居ないの知ってて戻ってきてたら、やばいな」
 
そしてあっくんは、すぐにアキラに連絡してみると言って電話を切った。
 
芝生に座り込んだまま、考えを巡らせた。
美桜は、あっくんと一緒ではなかった。「美容師の中島さん」が、奥さんのアキラさんだったとしたら。美桜に危害を加えるつもりなんて、まさかないと思うけど。
 
考えていたらスマホが震えた。
あっくんからの折り返し電話にしては早いと思ったら「公衆電話」の表示。
美桜が自宅近くのコンビニからかけてきた? 違う。だって自転車はここにある。

ボイスチェンジャーの、美桜以外からの電話だったら……。
心臓の鼓動が激しくなる。
 
私は、通話ボタンをタップした。

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