市民が創る。「ルートヴィヒ美術館展」 ◇京都国立近代美術館
京都国立近代美術館で開催していた「ルートヴィヒ美術館展」のレポートです。
(会期:2022年10月14日(金)~2023年1月22日(日)終了)
ルートヴィヒ?誰それ?
正直ぜんぜん知りませんでした。
ドイツ生まれのルートヴィヒさん。
本名ペーター・ルートヴィヒ(1925〜1996)
大学でピカソをテーマとした博士号を取得しているそうです。
本物ですね〜。
パートナーであるイレーネさん(彼女も美術史専攻)と結婚後、実業家となり2人で美術作品を収集します。(結婚した後と考えると20代後半か30代・・・?!)
古代から中世、民族、現代と幅広くコレクションしていて、1960年代からはポップ・アートも集めるように。
ポップアートといえばアンディ・ウォーホル。
(向かいの京都市京セラ美術館で展覧会が開催されていました)
ルートヴィヒ夫妻は時代の空気を読んだのか、すごい勢いでポップ・アート作品を収集しています。
コレクションを使った「1960年代の美術展」がケルン市で開催されます。これが市民にウケた。以来ルートヴィヒさんはコレクターとしての社会的な役割を自覚したそうです。
コレクションは、美術館に貸与したりケルン市にあるヴァルラフ・リヒャルツ美術館に寄贈していましたが、1986年にルートヴィヒ美術館へと分離します。
そしてルートヴィヒ美術館にはもう1人の重要なコレクターの存在が。
それがハウプリヒさん。
ヨーゼフ・ハウプリヒ(1889〜1961)
弁護士であり政治家。1920年頃にドイツの表現主義や新即物主義(ノイエ・ザハリカイト)を主に収集。時代的には第二次世界大戦前夜。
コレクションは危機を乗り越えケルン市に寄贈されます。
一旦、途切れそうになっていた芸術活動は、ハウプリヒさんのコレクションによって、市民の希望となります。若かりしペーター・ルートヴィヒ(21歳)も影響を受けた1人でした。この時に「市民に公開するための芸術作品の収集」を意識したようです。
ルートヴィヒ美術館はハウプリヒさんとルートヴィヒ夫妻の、大きく分けて2つの時代のコレクションと言えそうです。
日本では明治時代に、多くの実業家が自分の趣味や、仕事上必要な(茶道とか)コレクションをする人達も現れますが、中には未来の日本の文化の観点から収集し、私設の博物館を作ることもありました。例えば、泉屋博古館の住友コレクションである青銅器が世界有数である、という点など共通するものがあるように思います。(青銅器好き!)
20世紀から現代まで、全部見せます。
そんな経緯から、幅広い時代の作品をもつルートヴィヒ美術館。
20世紀美術の作品を時系列で見れる!(苦手だけど…だからこそ本物を見たい)と喜んでいたのですが。
いや、章立て多すぎん???!ちょっと怯みながら、会場へ。
※作品の撮影ほぼ不可
入口にはケルン市のルートヴィヒ美術館の大きな写真が展示されています。そこを左に入り、右手にぐるっと回って見るレイアウトになっています。※下図参照
とは言え、左右どちらにでも行けるので、戸惑う人もいたようです。(常に案内の監視員さんが誘導していた)
序章
まず、ルートヴィヒ美術館を代表するコレクターたちの肖像画や写真が出迎えてくれます。
ルートヴィヒさんの肖像画は、アンディ・ウォーホルに注文したもの。ポップでおしゃれ。色もいい。
ハウプリヒさんの肖像画はオットー・ディクスという新即物主義の画家によるもの。厳格で少しこわい印象。
あ・・・(察し)?
ちなみにディクスの作品はChapter1に自画像がありました。
中央に本人。左側にキャンバス。右側に窓の光。全体が灰色で覆われた強い明暗の対比。暗い部分は闇のように黒く、こちらを見る作者本人の光のない瞳。静かな中にも強烈なインパクトがありました。
ここからは個人的に勉強になった部分とか、気になった作品などをあげてみます。画像がないのでつたなすぎる文章でなんとか想像していただければ・・・
Chapter1 ドイツ・モダニズム 新たな芸術表現を求めて
ドイツの新しい表現のはじまり。代表的なグループは「ブリュッケ(橋)」と「青騎士」。激しい色彩から思い浮かぶのはフォーヴィズムとの共通性。
2つのグループを端的に表したのが以下の作品。
《森の中の情景》エーリヒ・ヘッケル,1913年(ブリュッケ)
赤・緑・黄の色彩。左側に横たわる裸体の女性。彼女の右手前に立ち少し上の方を見ているような男性。画面手前にある大きな葉っぱ。2人の間を縦に分けるように画面の上下に伸びる木の幹のようなもの。プリミティブさ。
《白いストローク》ワシリー・カンディンスキー,1920年(青騎士)
画面真ん中に白いひらがなの「く」のような緩いストローク。背景は緑。
くの字と背景の間にさまざまな色彩と形態が、色も形も混ざり合っている。
画面4箇所の角のそれぞれ三角形は、くの字たちから拒絶されている。
・・・言葉で説明しようと試みていますが 、抽象画の言語化とか無理なのでは。
そんなカンディンスキーの隣にあったパウル・クレーの《陶酔の道化師》1929年に少しホッしました。
大きな両手を広げ華やかな衣装をつけた魚みたいな顔の人(?)。道化師なのでホッとする場面じゃないかもだけど、ありがとうクレー。
キルヒナーも見たかった作家の1人ですが、あの白眼のない陰鬱な黒目と縦に細長い人物の造形は、1度みると忘れがたいなにかを訴える力を感じます。
20世紀は写真芸術も盛んです。
《マンボッシュのコルセット》ホルスト・パウル・ホルスト,1935年
かっこいい写真だなーと思って見ていたのですが、ホルストはファッション誌「ヴォーグ」の表紙を1930年代頃から手がけている人物でもあります。
手持ちのヴォーグの表紙集『VOGUE THE COVERS』にもホルストのカッコいい作品がたくさん掲載されていました。
話はそれますが、この本は1890年からの表紙が年代別に並べられ①イラスト②イラストと写真の間のような写真③現在の写真、と時代による変化がよくわかります。1970年代以前まではカッコよくてオシャレだな〜と思うものが多く、以降はバストアップのパターン化したものが増えて(だからこそパッと見てヴォーグだってわかる利点もあるけど)パラパラめくっていて思わず手を止めたのが2011年。ガガ様登場です。
さすが、ガガ様。もはや存在がアート。画が強い。
Chapter2 ロシア・アバンギャルド 芸術における革命的革新
ロシアでの新しい芸術表現「レイヨニスム」や「スプレマティスム」など。この章も写真が印象に残りました。
《ライカを持つ少女》アレクサンドル・ロトチェンコ,1934年
縦構図の画面を右上と左下の対角線上に分断。左上の「暗」の中に少女が座っている。右下は網目状の光と影。「暗」の中で少女は「明」となり身体の形状に合わせた網目が覆う。
写真の見方はまったくわからないのですが、彼の作品の明暗や構図はカッコいいと思いました。まだ現在のように誰もが手軽に撮って編集できない時代。「工業製品」という言葉も印象的です。
写真って基本的にカッコいいと思ってしまう。なんでだろう。
Chapter3 ピカソとその周辺 色と形の開放
ルートヴィヒ夫妻が当時まだ評価の定まっていないピカソの作品も収集したおかげで、ルートヴィヒ美術館は世界で3番目のピカソコレクションを所蔵しているそうです。
《アーティチョークを持つ女》パブロ・ピカソ,1941年
全体の色調はグレーと緑。女性の顔の輪郭部分以外は柔らかさはほとんど感じられない。アーティチョークと左手の尖った部分が呼応しているよう。
いやー・・・・ピカソ。わかんないですね。
ちなみにピカソ作品の展示室は壁面が緑色になっていました。
ルートヴィヒさんについて“ピカソをテーマに博士号を取得”と書きましたが、論文を書いてる時点では作品の実物は見てはいなかったそうです。
論文タイトルは「同世代の人々の人生観の表れとしてのピカソの人物画」。
この時代のこの社会で生きた人にしかわからないなにかが、ピカソの人物画の中にもあって、単に表面的にあの独特な造形を見てもわからないのは当然なのかも知れません。
Chapter4 シュルレアリスムから抽象へ 大戦後のヨーロッパとアメリカ
第二次世界大戦後の芸術世界。
第一次世界大戦前後あたりから、芸術の動向があちこちを向き始め形を失っていきその後混沌としていくイメージ。
《黒と白 No.15》ジャクソン・ポロック,1951年
太いストローク。墨を感じる濃淡感。プリミティブさと生々しさ。制御されない自由さの中の作為。
細かいドリッピングとは全く違う作風ですが、ポロックはあのワシャワシャ〜っとなっている作品に惹かれるものがあります。具体美術の作品を見た時にも感じましたが、読み解けない感じが好きなのかも知れません。
Chapter5 ポップアートと日常のリアリティ
1950年代にイギリスで始まったポップアート。
次いでアメリカ、ドイツにも影響を与えていきます。
《ホワイト・ブリロボックス》アンディ・ウォーホル,1964年
実物を見るのは初めてです…!
Brilloと書かれた箱が何個か積んでありました。
・・・ズバリ「箱」です!!
こういった展覧会で展示されることで、大量消費とかアートとかとはまた別の意味の価値を持たされているんだなぁ・・・と、箱の周囲をグルグル歩きながら「う〜〜ん箱だな」と刹那的な明るさを感じつつ、部屋を後にしました。
最近のブリロボックスというと日本のある美術館が購入したことで話題にもなりました。なんだかんだで公開されたら人は見に来るんじゃないかなという気はしています。
Chapter6 前衛芸術の諸相 1960年代を中心に
前章のポップアートを爆速で収集したルートヴィヒ夫妻は、同時代の前衛や抽象的な「オプ・アート」「ミニマリズム」などの作品も収集。アートはもっと純化され色や形を追求していきます。
《無題》ドナルド・ジャド,1966年
横になった長方体のスチール。長方体の手前に4分割されて突き出した、半円柱。いよいよもって、わからない世界・・・と思ったのですが、解説などを読んでいると、純粋に色や形を感じて素直に見れば良いのかも思いました。
絵画それはどういう意味か、この持ち物や置かれたものにはなんの意味があるのか、といったような探索的な見方をついしてしまうけれど、絵の具の色、素材そのものの質感や形状といったものを、感情を寄せずに見る。
この作品はどちらかといえば彫刻なのかな?と思っていたのですが、「絵画でも彫刻でもない作品」を体現したということでした。
「数列・・工学的を喚起する・・・ナントカカントカ」…うん、それはわからなくても仕方なし。
《夜明けの柱》モーリス・ルイス,1961年
縦2メートルほどのキャンバス。上から垂れたような色の柱。絵の具で「描く」のではなく「染み込ませる」ことで三次元性を排除する「スイニング」という技法。
この作家の作品は村上春樹『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』の表紙にもなっているそうです。(未読)
Chapter7 拡張する美術 1970年代から今日まで
旧東西ドイツの社会問題に関係する作品から、映像やパフォーマンス、現代の若手作家まで。
《近似(ハシビロコウ)》カーチャ・ノヴィツコヴァ,2014年
今回唯一撮影が許可されていた作家。ポスト・インターネット・アートの先駆者カーチャ・ノヴィツコヴァ。
インターネット・アートというのが現代的。インターネットが普及して20年ほど。それまでの間にどれだけの情報がネットの中に広がり漂っているのでしょうか。
《グリーンスケープ》イケムラ レイコ,2010年
こちらは同空間内に展示されていた日本人の作品。疲れていたところに、ふ〜っと目が吸い込まれるようなこの作品。
キャンバスの縁が、疲れた視界周辺のようにボヤ〜と不鮮明。その中に山のような川のような風景が遠くに見えている。夢か現か。
この作品はのちに「コスミックスケープ」という山水画に展開されるもので、なんとなく親しみがあると思ったのはそういう理由のようです。
見てみたかった〜。
まとめ
ルートヴィヒ美術館はあらゆる市民コレクターによってコレクションが形成されました。近年ではコレクターだけでなく、さまざまな団体とも協働して活動を行っています。《近似(ハシビロコウ)》のカーチャ・ノヴィツコヴァのような若手作家の作品を購入したのも、市民の声を反映した活動の一環だそうです。
最後に。現在のように表現が自由ではない時代、堰を切ったようにあらゆる表現が溢れ出した時代。人の数だけ表現があるように、これだけの種々の表現があれば見ている方も混乱するのは当然なのかなと思いました。
ただ、前回の具体美術展も含め、やっばり作品を直に見ると興味の持ち方が変わり、苦手な20世紀美術に少し近づけたような気がしています。
そしてやっぱりデュシャンも、ちゃんとやらなきゃな・・・とあらためて思う次第です。本読もうかな。
今回様々な表現に触れ、未来の人たちはAIアートなども現れ始め混沌とした現代の状態を、もっともっと意味わからん!ってなるのか、それともまだ人が絵を描いてるの?となるのかなぁと想像したりするのでした。
〈追記〉
正直にいうとこのレポートは、なかなか筆(タイピング?)が進まず、ウンウンしながら書いていたのですが、そういえば今の日本人のコレクターってどんな感じなんだろう?と思っていたところにいい展覧会レポが。
コレクターはどうやってコレクションをしていくのか(しかも親子2代)。
そして展示方法がすごい。賛否はあるかもだけどこんな風に「楽しそう」と思わせてくれる見せ方もあるんだな〜と思いました。
京都へ行く前に東京の国立新美術館での様子をニコ美さんで見ました。
(現在公開終了)
展示室の作りももちろん違うし、展示の壁の色とかも違ったので、随分雰囲気変わるんだなぁと思いました。ドイツ文学者の方の解説が、通常の絵画鑑賞とは違う視点だったのがおもしろかったです。
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