GUTAIと出会う 「すべては未知の世界へ GUTAI 分化と統合」◇大阪中之島美術館
大阪中之島美術館と国立国際美術館、同時開催の展覧会「すべては未知の世界へ GUTAI 分化と統合」へ行ってきました。
GUTAI?グタイ?ぐたい?
GUTAIってなに?という人はどのくらいいるのでしょうか?
漢字では「具体」と表します。
この、黒地に白い丸の絵。
わたし自身は、芸術史系の本を読んだ時に見かけることが多く「なんか見たことあるな〜」くらいの認識でした。
見た目にもインパクトがありますね。
具体の正式名称は「具体美術協会」。1954年に兵庫県芦屋市で結成されたグループです。
自分にとって日本の戦後美術は、よくわからない、というか20世紀美術がよくわからないもの。なのでそそくさと通り過ぎるだけの存在でした。
でも、それもそのはず(?)。
活動期間が、1954年結成〜 1972年解散。
わずか18年間と短いんです。
そんな折、謎多きGUTAIがたくさん見られる展覧会が開催されると知り、「これは絶対いく!」と決意したのでした。
大阪中之島美術館がすごい
というわけで、やってきました年明けの大阪、2023年1月7日。
2019年以降、美術館へ行くことがめっきり減ってしまい、久しぶりの大きい美術館です。
(この美術館は2022年に開館して結構話題になった)
地方住まいには「おおきい美術館」もうそれだけでワクワクなんです。
しかも、初めて来る美術館。真っ黒な外観にひるみながらも、いざ潜入。
中之島美術館は外装も内装も黒。圧がすごい。
正面エントランスにドーンとそびえる階段を上り、2階でチケットを購入。そこからエレベーターに乗り、上り・・・上り・・・5階へ。5階?
※4階でロートレックとミュシャ展をやっていました
普段は平たい美術館に行くことが多い身としては、気をつけないとワン○ースのゾ○並みに迷ってしまいそうな構造です。
(冷静にみるとそうでもありませんでした…)
小さい入り口
いよいよ入り口へ。QRコードをかざして入場します。美術館自粛してる間に、様々に変わった最新機器?に戸惑いがかくせません。
それにしても入り口が小さい。
(これがのちに印象に残ることに)
いざ、未知の世界へ(分化編)
では、章立てとおり見ていきましょう。
第1章 空間
入ってすぐに壁で仕切られたせまい通路があり、あいさつパネルを読んでからようやく作品の見える展示室内へ。
突然ひらく世界
突然、視界が広がります。先ほどとうってかわって室内は白。まぶしい。床もピカピカ。新しいだけあってとにかくキレイ。天井も高いです。
ガッツリした順路はなく、個人的に好きな展示形式です。
この日の来館者は多からず少なからず、ほどよい人数。
大きい作品が多いからか、作品周辺のスペースは広くとられ、皆さんゆらゆらと歩いておられました。
こういう雰囲気めちゃくちゃいい。
ビリリリリリリリリリリリリリリリリ!!!!!
突然、火災報知器のようなベルの音が鳴り響きました。ビックリして周囲を見まわしてみたけれど、だれも逃げる気配はありません。
ただ、ある場所を見ています。
それが今回の展覧会のトップを飾った作品。
田中敦子《作品(ベル)》1955/2000 | ベル・コード・制御盤・スイッチ | 可変
芦屋市立美術博物館
この作品はスイッチを押すと鳴り、来館者が自由に触れます。わたしはそもそも見逃していましたが。(痛恨のミス2)
せっかくなので、ドキドキしながら押してみました。
※下記「きたないメモ❶黄色い線参照
足元からベルが鳴りはじめ、会場の壁にそって音が遠くへ動いていくのが感じられます。
しばらくすると、音はだんだんと大きくなりこちらに戻ってきます。
スイッチを押している間、波のようなベルの音を感じながら、
これはいつまで押してるのが正解なんだろう?
戻ってきたけど、押し続けたらどうなるのかな?と、音を聞く自分と、問いかけてくる自分を意識できておもしろかったです。
中には早々に押すのをやめる人もいて、人によって違うんだなと思いました。
音によって作品の「存在」と「空間」をとても意識させられた気がします。
そして、同作家の作品で一度見てみたかったのがコチラ!
田中敦子《電気服》1956/86 | 乾球・電球・合成樹脂エナメル塗料・コード・制御盤 165.0×80.0×80.0(高松市美術館蔵)※撮影不可
思わず「本物!!!!」とテンションが上がりました。
これもテキストで読んでいた時は「電気服?どういうこと??」くらいの気持でしたが、実在したことに感動です。
しかも、ちゃんと光るんです。
※30分間隔で実演される
はじめは作品の周辺がやけに暗くてビックリしていたのですが、このためだったんですね。
この作品は実物で見て、この空間、この時間でしか感じとれないものがあるなぁと思いました。
ただ周囲が暗くなってしまうので、展示場所を選びそうですが、それをものともせずに静かにたたずむ”具体”のボスの登場です。
※きたないメモ❶の青丸①参照。2つの作品は隣り合わせになっている。
吉原治良《無題》1971 | 油彩,カンヴァス | 230×315.5 国立国際美術館
なんですかこの、なにか言っているようで、なにも言ってない感。
一見、禅を想起させるようなこの作品は、実際なんの意味もなくて造形的な意味合いから「円」を選んだのだとか。
む、むずかしい…!
けれど、作者の精神が物質と対話している様が、少しだけ見えるような気がしました。
大きな作品が多いけれど、押しつけるような圧はなく
「さあ!どこからでも自由に見てくださいよ!!」
という雰囲気はとても居心地がよかったです。
第2章 物質
ここでは「具体美術宣言」で語られる「物質」に焦点があてられていました。
精神と物質が対立したまま握手?
物質がテーマなだけに、「ものです!あります!」感が強め。
一般的に絵具は色を塗るものというイメージですが、本来は「物質」であると意識させられます。そのほか、麻・石・砂・ガラス・樹脂・接着剤・泡など、普段身近にあるものを、こうして提示されると不思議な感じがしました。
はじめは「対立しながら握手」ってどういう意味かまったくわかりませんでした。
でも、ただの物質だと思っていたものの中に、人の心の動きのような痕跡を生々しく感じ取っていた気がします。
拒絶するわけでもなく、迎合するわけでもなく、これが「握手」ということなんだろうかと思いました。
第3章 コンセプト
章が変わった途端、ナゾの黄色い布が目に飛び込みます。そしてナゾの透明な箱。
もう戸惑いしかありません。
今回の展示は、作品以外の情報を目立たないようにしてあるのか、とてもスッキリした印象でした。
それは作品名の多くが《作品》とか《無題》ということにも関係がありそうです。
モノやコトというのは名前がついて初めて認識することがあります。
例えば、名前を知らなかったころのあの人は、知らないならずっと「あの人」のままですよね。でも、名前を知ってしまったらそれはもう「あの人」ではなく「○○さん」になってしまいます。
具体では理屈っぽい説明が嫌われたといいます。だから名前のない作品が多いのかも知れません。
この章ではあえて”行動の結果”の間にある過程を探ろうというものです。
行動と結果、のあいだ。そして「よくわからない」が極まる
「よくわからない」状態が、ここに来て極まります。
一面、黒い線でうめつくされ闇堕ちしたのかと心配になるような作品。
空気と題されたアクリル板の正六面体。
壁に貼られた黄色い布。
時間と共に剥がれてゆく絵の具。
無題だからといって意味がないわけではもちろんありませんが、具体の作品を見ていると言葉で説明することは野暮な感じがします。
一連の作品は例えば、〈言葉を発する〉〈身体を動かす〉といった動作の前、まだ完全に表出される以前に動いてしまう精神と肉体の形、のようなものなのかも知れません。
ここのレイアウトはザックリ3つに分かれているっぽかったのですが
「ここ白髪さんターンですよ!」
と言わんばかりの空間がありました。
※きたないメモ❸参照
その前に立った瞬間、飛びこんでくる白髪作品に圧倒されます。
そして圧倒的すぎてまた撮影を忘れる痛恨のミス3。
白髪一雄のフット・ペインティング作品は見てみたいと思っていたので、実物が見ることができて感動です!
第4章 場所
さて、いよいよ「分化」の最終章。
こちらの精神と体力の限界も近くなっています。第1章で時間を使いすぎたせいで、第4章にたどりついた時にはもう閉館時間が迫っていました。
やばい。このままではミュージアムショップにまで手がまわらない。(痛恨のミス4)
環境すら要素
具体にとっての場所とはなんだったのか。
この展覧会の作品たちは、安全な白いハコの中でおとなしく展示されています。
けれどこれが屋外であったなら?
太陽が照りつけ、雨が降ったり、風が吹いているかも知れません。
具体は人のコントロールがきかない場所にあえて作品を展示しました。
そこでは周囲の環境は作品の一要素であり、それら含めたすべてが一体となることを楽しんでいるようです。
そして、閉じる世界
初めに「入口が小さい」と言ったことを覚えておられるでしょうか。出口も「えっ?ここ?」っていうくらい小さくてビックリしました。
展示室から切り離された出入り口をくぐることで、世界が変わるような体験をした気がします。美術館自体が黒いため、展示室内の白さとも相まって対極的です。
初めてみた展示室なので、もしかしたらこれがいつもと同じしつらえなのかも知れませんが、また来た時に確認してみたいと思います。
展示は続くよ、外までも
展示室を出ても作品は続いていました。
気がつけば4時間ほど経っていました。
やっぱりミュージアムショップまでたどり着けなかった…っ。(特設だったのに)
長くなってしまってお忘れかも知れませんが、まだ続きがあります。
国立国際美術館「統合」編、おとなりへ移動です。
※その前に「分化」編、完全に個人の見解。ちょっと長いです。
展示のカタチ
面倒でなければ、きたないメモ❶❷の青字①②③④に注目していだだきたい。
この展示会場はガッツリした順路はないとはじめに言いましたが、章が進むにつれてシッカリめの順路になっていきます。
展示室が3つに分かれているので、どうしたってその順序で進まなければなりません。
進むにつれて、ある時点で以下の4点の作品が、やけに目に入ってくることに気がつきました。
①は入り口からどのように歩いていても、この作品にたどり着くようになっています。
しかもその前のかなり広くとられたスペースには、椅子が置いてあるのでなんとなく座ってマッタリしてしまいます。
そして②
へたくそな絵では分かりにくいのですが第1章はまだ続いていて、またしても絶妙な位置に②と椅子があるのです。当然座ります。
そして③と④
第1章の区切りの壁をこえ第2章に入り進行方向の、視線の一直線上の終点に③。③を見終えた左手に視線を向けると④。
といったふうに、これはもしかして要所に吉原作品を、いい感じに配置しているのでは疑惑が浮上します。
疑惑?の真偽はわかりませんが、それを意識して見てみると、うわ〜〜〜〜〜っとひとり盛りあがり、ついなん往復もしてしまいました。
ちょっと迷惑かな?とも思ったのですが、逆走しても大丈夫なくらいのスペースだったので多分大丈夫だったでしょう。
作品を見ていると周囲の環境にあまり気がまわらないのですが、こんな風に違う見方をするのも楽しい!と実感したのでした!
ふたたび、未知の世界へ(統合編)
統合されに参ります
さて時間は夕方の6時近く。
中之島美術館のおとなりにある国立国際美術館へやってきました。土曜は8時まで開館しているのでありがたいですね。
1、握手の仕方
精神と物質が握手?
「分化」で感じた【〈言葉を発する〉〈身体を動かす〉といった動作の前、まだ完全に表出されるの以前に動いてしまう精神と肉体の形、のようなものなのかも知れません。】は当たらずとも遠からず、だったかも知れません。
それらをもっと具体的な方法、人間の手のままならない素材を用い、あるいは作者の手の動くままにくり返し描かれる線、などによってその痕跡を残したとも言えるようです。
言葉での説明は難しいのですが、なんだこれ?と思いながらも、もしかしてどこかで見たことあるかも?というのは、物質として表される以前、視覚になる前のなにか。そんな風に感じました。
2、空っぽの中身
けれど具体はなにも伝えない
そもそも具体は「誰の真似もするな」というところから始まっているので、全体をまとめて語ることができないものです。
だってグループの中で似たものがあれば、もうそれはオリジナルじゃなくなります。
だから、全部違ってるけれどかろうじて同じ方向を向いている雰囲気だから、仲間だよネ、みたいなイメージでしょうか。
物質と精神は言いかえると、具象と抽象とも考えられます。
でも具体はそのどちらでもない。
「意味のある形」
「形のない無意味」
「あわい」
はじめ、ひとつひとつのの単語や、意味はわかるのに、なにを言っているのがわかりませんでした。
ふたつのあいだの何者でもない、意味のあるような、ないような「空」なもの、そんな風に解釈できるかも知れません。
3、絵画とは限らない
飛び出す絵画(とは限らない)
いよいよ最後の展示室です。
ここまで来て、少しはわかったような気になっていたのですが、またわからなくなってしまいました。
一度にたくさん見たため、というのもありますが、今まで知っていた通常の絵画の流派とか思想みたいなものの「塊」が全然わからないのです。
前章で、オリジナルを求めるなら個々は別々でなければならないし、だけどどこかで繋がっているはず、とは思ったのですが。
それは一体なんなのか。
自由だ
吉原治良の
「誰の真似もするな。今までになかったものをつくれ。」
という言葉は、単に物珍しいものを作ればいいといった意味ではありませんでした。
そもそもこの考え方の発露は、独学で絵を描いていた吉原が、藤田嗣治に「他人の影響がありすぎる」と指摘されたことから始まっているようです。きっと強烈な一撃だったんでしょう。
それが「誰の真似でもないオリジナル」への情熱を生み出したと言えそうです。ではその行きつく先はなんなのでしょうか。
わたしはこのレポートをまとめる際、作品を思いうかべ、図録に書かれている作品の背景について読む、を何度もくり返しました。
そのうちに「めっちゃ自由を求めてるやん…」と思うようになっていました。
精神とか物質とか、理論とか行動とか、異質と併存とか。相反する2つのものがキーワードとして常にあり、それらをどう擦り合わせていくのか。
これが具体でいうところの「対立しながら握手」であり、求めたものは既存の芸術に縛られない「自由」だったのか・・・?というところにたどり着きました。
未知の世界。わからない、は面白い
今更わたしが考えるまでもなく、既存の芸術に縛られない自由ってそりゃそうだろ、かも知れません。
ただ当時の、彼ら彼女らが考えていたことに思いを馳せると、頭の中がかき回されてとても疲れました。
見終わって数日たった今だから、少しは深く考えているっぽいですが、作品を見ている時や、すべてを見終わった瞬間は
「わからんけどめっちゃ楽しい!」
しかありませんでした。
本当にこの展覧会を見ることができて良かったです。
※図録だけかろうじて購入しました・・・。
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