【小説】『万華鏡ロジック』 三話



「落ち着きましたか?」

 馨は涙を流す彼女へ静かに声をかけた。

「……ごめんなさい。私……最近、じょうちょがアンテーしなくて」

 涙を裾で拭い、鼻を啜りながら彼女は答える。
 まだ泡を張っている淹れたての熱いコーヒーを一口飲んだ。温度が冷めることで時間の経過を体感した。

「こんな話を聞いてくれて……ありがとう、……あなたくらいなのよ、私が生きてきたなかで一番、真剣に話を受けとめてくれたのは……」

 辻村という男は人からの愛情に飢えた孤独な厭世家だ。私の対面に座っている彼女は感情の波が少し激しい女性ではあるけれど情に厚く人を労わることできる。孤独に蝕まれて拠り所を求める二人は他者に依存する傾向が共通している。柔軟な思考ができ、裏表もないのでおそらく良好な関係を築けると思われる。

 スマートフォンで確認すると時刻は午後五時四十ニ分。待ち合わせの時刻まで十八分あるが、辻村の性格から考えると待ち合わせの時間より早く訪れるだろう。

「実は今回の件、彼には紹介したい人がいると伝えているだけで詳しいことは話していません」
「えっ!」
「なので説明のほうも貴女にお任せします」
 当然だが彼女は驚いていた。少し燻んだ色合いの戸惑いと張り詰めた不安の香りが漂ってくる。
「そうだったんだ……なんだか緊張しちゃう」
 必要なことは伝えたので店を出るつもりで私は席を立った。
 すると――「待って!」と彼女に呼び止められた。
四葩ヨヒラさん……ありがとう」
 彼女はそう言って私を強く抱きしめた。彼女が私にそうしているのは、もう自らの腕で人を抱きしめる事ができなくなるからだろうか。
 人の熱と服から香るヘアスプレー、柔軟剤の香りが私の鼻をくすぐった。


    ◇


 僕は腕のない女が好きだ。
 僕は腕のない女しか愛せない。
 父の遺してくれた財産のおかげで美大に進み彫刻を学ぶことができた。
 しかし、僕の歪んだ欲望の根源は父から受け継がれた呪われた因子なのだ。――あの日、目にした光景。
 死ぬかと思うほどの快感。その場で果ててしまった。

 母は、あの頃のままだった。
 ただ違うのは腕を持たないという事だけだ。
 明るい茶髪に染色された鎖骨まで伸びた髪。薄らと施された化粧。死者とは思えない肌。魂の宿ったその姿、目は閉じられていてなにも知らない人間が眠っていると聞いたら、間違いなくそうだと信じるだろう。

 その時、生まれて初めて味わった激しい性的興奮を覚えた。しかし、同時に絶望と地獄の底へ落とされてしまった。腕を持たない人間にしか性的欲求を得られない、だからと言ってあろうことか実の母にさえ欲望を抱いてしまうという事実。自分のような人間が存在することは隠さなければいけない。

 美大を卒業後は自宅に篭り、黙々と彫刻を制作する作業を繰り返していた。食事と睡眠、それ以外は全て部屋に閉じ籠り彫刻を造る作業に明け暮れている。中身のない自分には結局それ以外やる事がないと言うのも理由の一つ。その姿はまるで書斎に篭ってばかりいた父のようだと我ながら思った。
 そんな虚しさをゴマかす時はいつからか、他の芸術家の作品を眺めていた。彼女と出会ったのは、そんな時だった。とあるアートギャラリーでカオルを見かけた時、遠目から見ても綺麗な子だと思っていた。細くてスラリとした手と足、少し高い身長に均一のとれた骨格、癖のない長い黒髪と対比するように白く滑らかな白磁の肌。紺色のワンピースを着て僕の作品の前で佇んでいる彼女の後ろ姿からは高潔さと神秘的な雰囲気を感じた。展示された美術品の一つだと答えられても納得してしまいそうなものが彼女にはあった。

 間違っても疚しい気持ちがあった訳ではない。純粋に気になったのだ、磁石に吸い寄せられるように気がつけば声をかけていた。振り返った彼女の表情は突然、声をかけられたことに対する驚きは見られなかった。だがその顔を見て、僕が僅かな違和感を抱いた。なにも顔立ちに違和感があるわけではなく、むしろ彼女はタレント並みに整った顔をしており現実味がないほど顔のパーツに違和感のない配列の顔立ちである。僕は少し考えて違和感の正体に気がついた。数年前に新進気鋭の画家としてテレビ取材を受けていた少女の容姿と彼女の容姿が似ていたからだ。あとで話を聞くと実際に彼女はテレビに映されていた本人だった。その時、テレビ画面の向こう側で紹介されていた絵画の狂気的なまでの美しさと画家の幼さからよく覚えている。名前はかおる、当時の年齢から考えると……要するに彼女は容姿と達観した眼差し、纏っている印象は大人びていたが、まだ高校生であった。その事実もふくめて内心はかなり驚いた。

 その日の出会いから特に深い意味はなく僕らは連絡を取り合う仲となった。初めこそ僕は名字で読んでいたのだものの、名字で呼ばれるのは学校だけで十分だから名前で読んでほしい、との事でそれからは馨と呼ぶようになった。馨は人が多い場所では体調が崩し易いらしく人が少ない場所を好んだ、僕にとってそれは都合がよく自宅に招いて教師さながら彫刻を指導したり、行きつけの喫茶店で他愛のない雑談をしたりしていた。
 そんな馨に対しても腕のない姿を想像してしまう。
 こんな僕の本性を知れば馨はどんな目で僕を見るだろう。犯罪者か、怪物か、そんな目で見るのだろう。
 あらゆる場面で人と関わりを持つたび、人と深く関わろうとするたび、自分はどうしようもなく思い知らされてしまう。父が人殺しだということも、父と同じ宿命を受け継いでしまった己の真実を同僚にも、そして僕はこの罪を死ぬまで隠し通さなければならないのだと。
 ――あの日から十数年経ち、僕は彫刻家としての社会的な評価も実績も積み上げてきた。一方、その影で抗い難い欲望は強迫観念となり前触れもなく僕に襲いかかるのだ。発作的な腕への破壊衝動が精神を支配した。あの夜、記憶が飛んだ……気がつくと僕は女性へ刃を振りかざしていた。犯してしまった罪への自覚と後悔を感じながらも、先に私の心の端にあったのは罪が露呈する事への恐怖だった。
 ニュースの報道によると女性は逃げた後、コンビニに駆け込んで店員に助けを求めたらしい。しかし、報道を聞く限りでは犯人の特徴について何も語られていなかったことから推測すると、あの女性は背後から襲いかかった自分の顔をまともに目撃してはいなかったに違いない。だが、もしかすると防犯カメラに自分の姿が映っていないだろうか。彼女以外に目撃した人間がいた可能性もある。僕は犯した罪への罪悪感はありながらも自首するという勇気はなかった。このままバレなければいい。
 でも、もし無意識下の状態で人を手にかけてしまうなんて事はないだろうか。いまは大丈夫でも、いつか。いつか。いつか、父のように……理性で抑え込んできた衝動が暴れ回り、親しくしていたはずの人ですらも自らの手で殺めてしまうなんてことはないだろうか。

『辻村さんはご結婚とかされないんですか?』

 いつだったか誰かが言っていた。きっとその言葉に深い意味はないんだろう。彼らはただ、職についた後は普通に結婚して一男一女をもうけるという社会の同調圧力に従っているだけなのだから。それだけのこと。
 唐突に父のことが脳裏にへばりついて頭から離れなくなった。母に罵倒され項垂れていた父の事を。
 ――きっと、父は父なりに人を愛したかったのだろう。しかし、愛というものは互いに受け入れてこそ初めて成立するものである。それがただの一方的なものであればただの執着に他ならない。
 僕がこんな事を考えても意味なんてあるわけがない。受け入れられるわけもなければ……その資格すらもない。

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