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【原作者激怒の問題作】映画『ゲド戦記』の問題点を原作読破済の視点から語ります【原作は面白い】

こんにちは、リモコンRです。

日本アカデミー賞の予想にチャレンジするも見事惨敗した私ですが、今回お話しするのはジブリ映画『ゲド戦記』です。

幼いころからジブリ映画が好きで日がな一日眺めていた私ですが、初めてこの作品を観た時、大変困惑したのを覚えています。
敵がひたすら怖かったこと以外は、内容がさっぱりわかりませんでした。

しかし最近になって、この『ゲド戦記』には原作の小説があると知り、中古で全巻手に入れることができました。そこで詳細な部分の補足知識を得たことで、これは映画のほうに問題があるのでは…?と思い当たります。

今回は原作を読んだうえで、この作品がいかに映画として問題を抱えているのかについて話していこうと思います。

ぶっちゃけ観るのはお勧めしませんし、観たい気にもならないと思うので、ネタバレは気にせず書いていきます。気になる方は注意。



ゲド戦記について


内容を話すうえでまず『ゲド戦記』とは何かについて軽く触れておきます。

原作小説がある

『ゲド戦記』は、アーシュラ・K・ル=グウィンによって書かれた長編ファンタジー小説です。全6巻からなり、言葉や名前によって対象を操る魔法を扱う魔導士ゲドが主人公として登場します。
世界規模では『オズの魔法使い』や『指輪物語』と並ぶ知名度を誇る小説ですが、日本ではやはりジブリが製作したアニメ映画のイメージが強いようで、映画が原作だと思われている方が多いと思います。

ただ、実は原作と映画とでは内容が異なります。そこがこの映画の困惑ポイントで、迷作となった理由です。

映画は一部を抜粋したもの

原作小説は全6巻出版されていることはすでに説明しましたが、この映画はそこから少しずつピックアップして1つに混ぜ合わせたかのような作品になっています。

原作と違うポイントとして、そもそも主人公が違います。原作ではゲド中心に物語が進みますが、映画ではエンラッド国の王子であるアレンという少年がメインで、このアレンが闇に心を蝕まれ、父である国王様を剣で刺し殺してしまい、放浪しているところをハイタカ(ゲド)に拾われともに旅に出るところから話が始まるのですが…。

”闇に心を蝕まれ、父である国王様を剣で刺し殺し”の部分は映画独自の要素です。原作では、ゲドが大賢者として治める魔術学校に世界の異変を察知したエンラッド国から王子のアレンが派遣されてくることで出会います。
またアレンと国王の関係はいたって良好で、刺し殺すことはありません。

この闇に心を蝕まれるという部分は、第1巻「影との戦い」にて、まだ駆け出しだったゲドが、未熟ゆえの失態により生んでしまった”影”に追われながら自身の生き方と向き合う様が描かれており、ここから抜粋したものと思います。

映画内でゲド一行を泊めてくれるテナーという女性は原作2巻「こわれた腕環」に登場するキャラクターで、カルガド帝国の巫女として自由のない限られた世界を生きていましたが、ゲドと出会うことで外の世界を知り自由を手にしたという過去があります。映画内ではゲドの旧知の仲である魔法使いであるという存在にとどまっています。

そして今作のヒロインとして登場する顔にやけどの跡がある少女テルーは、原作では4巻「帰還」に登場。両親から虐待を受けていたところをテナーが引き取った形で暮らしており、実は人でありながら竜の化身でもあることが明かされます。最後にはカレシンという竜からどちらの世界で過ごすかを問われ、テナーやゲドとともに人として暮らすことを選択します。

敵として登場するクモですが、彼は原作には登場しません。原作では明確な敵というのは登場せず、世界の均衡や影といった抽象的な存在に立ち向かうことが多いため、映画としてわかりやすい敵という存在が必要だったのかもしれません。

こういった具合に、各巻に登場したキャラクターを1巻のストーリーに詰め込んだものが映画として組み立てられているわけです。



今作の問題点とは


ここまで作品について簡単に触れたところで、なぜこの映画がつまらないのか、その問題点を指摘していきます。

良さを消してしまうオリジナル展開

先ほど触れた通り、この映画は全6巻あるストーリーを1つの映画にまとめたわけですが、各巻はそれぞれゲドと誰かをメインに据えています。1巻ではゲドと影(自分自身)、2巻ではゲドとテナー、3巻ではゲドとアレン、4巻はゲドとテルー(+テナー)といった具合ですね。

本1冊を通してキャラクターを深堀り、ゲドとの出会いや対話をどう捉え、どう決断し歩き始めるのかが読みどころなのですが、各キャラクターを1本にまとめたせいでこういった要素がほぼ消えてしまっています。

アレンはただの病める少年、テナーはただの旧知の魔法使い仲間、テルーはただの内向的な少女…。こういった印象しか与えません。

また、この世界での魔法はただ便利なものではありません。言葉を学び名前というものを理解し始めて扱えるようになるものですが、登場キャラクターは難なく使いこなします。「真の名が大事」とは出てきますが、いかに重大なのか価値が伝わりにくくなってしまっています。

魔法を扱うとは何か?ということを丁寧に描いていたのが1巻なのですが、主人公を魔法使いのゲドからそうではないアレンへと変更したことで、魔法とは何かを学ぶ過程が飛ばされてしまい、そのままうやむやにして進めてしまったのがもったいないと思いました。

圧倒的説明不足

広く浅くの内容で深堀りができないのであれば、最低限事象の説明は必須です。「なぜそうなったのか」は観てる側に伝えるべきです。できる監督ほど伝えるべき情報を伝える技術を持っていて、それらを様々に駆使して自らの世界を表現しています。

でもこの作品には、求められるような説明が全くありません。

例えば、テルーがなぜ最後竜になったのか。原作読者は竜の化身である話を知っているためまだ理解できると思います。(原作で竜の姿になることはありませんが)
しかし映画内では、テルーと竜の関係性について一切説明がありません
そもそもフラグすら立っていない中いきなりの竜化なので、テルーの真の姿がなぜ竜なのか全く結びつけることができません。
これはキャラクターへの掘り下げが浅いことの弊害といえるでしょう。

また映画冒頭、「世界の均衡が崩れている」とセリフがあり、それが起因してアレンの精神が不安定になったり、竜が下りて来たり、人の心が荒んだりしているのはわかります。でも結果、”世界の均衡”とは何だったのか、どう解決したのかは明かされません。
一本の映画にまとめた挙句、尺が足りない打ち切り漫画のような消化不良で終わってしまったことがとても残念です。

なら映画内で説明がなくても原作を知っていれば楽しめるのかというと、そういうわけではありません。なぜなら原作とは違うオリジナルの要素が多く含まれているためです。これは誰が楽しむことを想定した映画なのでしょうか。


結論


ここまで話してきたことを踏まえて、この作品の問題点をまとめると、

1.オリジナル展開にまとめたせいで原作の良さを消してしまっていること
2.必要とされる説明が全く足りていないこと

これに尽きるのではないでしょうか。

そして私が原作を読んでまず思ったことが
1巻をそのまま映画にすればよかったのではないか?
ということでした。

ゲドでなくアレンに置き換えた理由が分かりませんが、若きゲドを描いた1巻のみをまとめてきれいに終わらせるという映画ではだめだったのか?と思わざるを得ませんでした。どうしてもオリジナル要素を加えたかったのでしょうか?ここまで積み重ねた変更点が映画では整理されずぐちゃぐちゃになったまま進められてしまうことがこの映画の欠点であることは明確なのに。

また、「ゲド戦記」というタイトルと中身の一部を借りて好き放題しているところは、原作へのリスペクトを欠いているとも言えます。

原作者ル=グウィンは完成したこの映画を観て、「原作を無視しており、私のみならず世界中の読者を馬鹿にしている」と大々的に批判していたそうです。私も原作を読んで全く同じ気持ちになりました。

原作の改変は映画に限らずよく見られますが、必要なのは原作の良さとは何か、何を伝えたい作品なのかを理解すること。そしてそこを変えないことだと思います。

原作を改悪し原作者を怒らせ、それでいて作品の要素をつまんで混ぜ込んだ結果つまらなくなったこの映画は、私が観てきた映画の中でもワースト級なのではないでしょうか…。









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