見出し画像

いつか、巡礼の地で(1)

<あらすじ>

母の実家は香川の高松にあった。夏の盆になると家族でそこを訪れ、年上のいとこたちに遊んでもらうのが楽しみだった。そこで絵梨は孝に連れて来られた友人の直央と出会う。すらすらとペンを動かし、描かれていく直央の絵に引き込まれていった絵梨。その瑞々しい記憶から全てがはじまった。

不思議なきっかけで手紙を交わし、大学生になった直央との再会を果たす。その先もずっと彼との連絡が続くと思っていたが―。

高校卒業を期に上京した絵梨と画家になる夢を追い続けた直央
時を経ながら交錯する二人のそれぞれの人生が描かれている。

2013年7月 徳島県鳴門市
絵梨編

鮮やかな青空に蝉の声が鳴り響いている。噴き出る汗が頬を流れ、駅からさほどかからないはずの道のりが果てしなく思える。深緑の山々と田畑が広がるのどかな県道を歩き続け、ようやく霊山寺と書かれた巨大な看板が見えてきた。ここが一番札所。気が引き締まる思いがした。

 金色の童子が浮かぶ放生池を通り、奥の本堂へと進む。何人かの参拝者が集まり、漂う蝋燭の煙の中に、天井を覆う無数の灯籠が見える。献灯の香りは心を鎮め、まとわりつく暑さも引いていくようだった。参拝を終えてから蝋燭に火を灯し、身近にいる人々の健やかな日々を願った。そして銀色の納札入と書かれた箱に札を納めた。

 本堂の階段を下ると、木陰にいる男性に目をとめた。帽子を被り、ポロシャツの袖から細い腕を伸ばし、スケッチブックを広げている。

まさか―。

その男性の方へと近づいた。細い体つきと年頃に面影が蘇ってくる。男が視線を上げ、目が合った。見知らぬその男は不思議そうにわたしを見てから再びスケッチをはじめた。

一番寺を出て西へと進み、質素なうどん屋の扉を開ける。奥の席に着き、鳴門の名物という鳴ちゅるうどんを注文した。年配の女性店員が氷のたっぷり入った水を置くと、汗を拭き取りながら一気に飲み干した。

効きの悪い冷房と後ろの座敷に置かれた扇風機に挟まれ、次第に体の熱が引いていった。注文したうどんが置かれると空腹へと流し込む。短くて不揃いな麺はすぐに舌で溶け、あっさりとした出汁が広がっていく。

あの時に食べた讃岐うどんとはまるで別物だった。目尻に皺をつくって笑う顔が浮かんで、やがて幻のように光の中へと消えていく。

店を出て日差しが照りつける道を再び歩き出すと、涼んだはずの体はすぐに汗ばむ。
夏の遍路は体に堪える。

やがて極楽寺が見えてくる。山門をくぐると、一番寺のようなひとけはなく、ひっそりと静まり返り、あらたかな空気が肌を伝う。入ってすぐの水子供養を過ぎ、本堂へと向かい、参拝をした。

弘法大師がお手植えしたという巨大な杉の前に立った。無数に脈打つ管が彫られたような巨木が青い空へと伸びる。目を閉じ、手を合わせる。蝉の声だけが境内に響くなか、千年以上前にこの地で祈る大師の姿が瞼の裏側に浮かんだ。

いまこの瞬間、わたしは何者でもない。

鼓膜が割れるような蝉の鳴き声に目を開けた。すると一匹の蝉が目の前の杉に止まり、唸るように鳴いていた。

母の実家は高松の山間にあり、お盆になると山梨から香川を訪れ、叔父や叔母家族とご馳走を並べたテーブルを囲い、賑やかに過ごすのが恒例だった。特にその時にしか会えない年上のいとこたちに遊んでもらうのが、わたしの一番の楽しみだった。

中学生になった孝君、年子で妹の沙希ちゃん、叔母さんの一人娘のまこちゃん。到着すると既にみんなが庭に集まっていた。

車を降りて駆け出すと、その中に見知らぬ少年がいた。人懐っこい笑顔を浮かべ、みんなと打ち解けている彼を前にぴたりと止まる。

「絵梨ちゃんだ!」

沙希が振り返り、一斉に駆け寄ってくる。わたしはもじもじしながら沙希の耳元でだれ?と尋ねた。彼女の代わりに孝が明るく答える。

「友達の高山君。今のクラスで仲良くなってな、昨日家に遊びに来てたからノリで連れて来たんよ。」

「なんや、その紹介。高山直央です、よろしく。」

彼は凛々しい瞳を細め、くしゃりと笑った。わたしは足元に視線を落とし、小さく頷くことしかできなかった。

背後で孝たちがボール遊びをする声を聞きながら、チラシの裏にペンを走らせる。行かなくていいの?と時々心配そうに覗き込む母の呼びかけに曖昧な返事をして、頑なに外には出なかった。

本当はみんなと遊びたいのに。どうして見ず知らずの子がいるのか。持っていた色鉛筆に力を込め、水色で塗っていく。

「絵、描いとるん?」

突然降って来た声にびくりと肩を揺らした。振り返るとそこには直央が立っていた。ぱっと視線を落とし、うん、と呟いた。彼はその様子を気にすることなく、隣に腰掛けて紙を手に取った。真剣にイラストを見つめる横顔からは汗が伝い、近い距離に鼓動が激しく音を立てる。

「絵上手やなぁ、なんのキャラクターなの?」

「・・・アニメのキャラ。ルクスていうの。」

「へぇ、そうなんや。俺も絵描くの好きなんよ。」

そう言って直央はペンを拾い上げ、人気アニメに登場する少年をすらすらと描きはじめた。その様子に釘付けになり、思わず声を上げた。

「わぁ、すごーい。」

「小さい頃からやってるからな。今も美術部に入ってるんよ。」

「何でも描けるの?」

「うん、何でもええよ。言ってみ。」

ねこ!と言うと直央は嬉しそうにペンを走らせ、新しい白紙のなかに丸い瞳を向ける可愛らしい猫が現れる。散らばった色鉛筆を手に取りながら彼は呟いた。

「本当は水彩の方が綺麗に描けるんやけどな。」

「そうなの?十分上手だよ!」

身を乗り出して言うと直央は照れ臭そうに笑った。それから視線を落とし、気恥ずかしそうに口を開いた。

「今日、急に来てごめんな。俺のせいで絵梨ちゃん、孝たちといつもみたいに遊べんかったやろ。」

「ううん。わたしが人見知りしちゃったから。でも、もう大丈夫だよ。」

「なら、よかった。」

おーい、たかやまぁーと呼ぶ声に、今行くーと返事をしてから直央は立ち上がってわたしを見つめた。つられて立ち上がり、彼の背中を追いかけながら、お兄ちゃんと小声で呼んだ。

「・・・今度、描いた絵をもらってもいい?」

直央は目を大きくしてからにっこりと笑った。

「ええよ。今度ちゃんとしたのを描いてあげる。さ、みんなで遊ぼう。」

「うん!」

わたしは明るく答え、直央と共にみんなの元へと走り出した。

 翌年の夏、いつもに増して祖父母の家に集まるのを心待ちにした。木々に覆われた薄暗い道を抜け、開けた視界の先に青い瓦屋根が見えてくると胸が高鳴った。

庭を見ると誰もいない。そこには叔父のワゴンが停まっているだけだった。中に入るとまだ叔母たちが到着しておらず、居間には叔父と孝が座っていた。母が台所に入ってから、寝転んで漫画本を読んでいる孝に近寄り、こっそりと尋ねた。

「孝君、お兄ちゃんは?」

「ん?お兄ちゃん?あー高山のことか?あいつ今年は用事あるみたいで来れなかったんだ。」

そう、と肩を落とすと、孝はにやにやしながら覗き込んできた。

「なんや絵梨、高山のこと好きなのか?」

「そ、そんなんじゃないよ。ただ、絵を描いてくれるって約束してたから・・・。」

ふーん、と素気なく返事をしてから孝は何かを考えはじめた。気恥ずかしくなって何か言おうとするとテーブルからチラシの裏紙とペンを取って、わたしの前に置いた。ぽかんとすると孝はにかっと笑った。

「住所教えてよ。俺が高山に伝えといてやる。」

戸惑いながら山梨県北杜市の住所を書いて渡した。俺に任せろと言わんばかりの自信に満ちた表情を浮かべ、孝はメモをポケットに仕舞い込んだ。

夏の暑さがやわらぎはじめ、夕方になると涼しい風が流れた。そんな頃、一通の手紙が届いた。郵便受けを覗くとチラシの上に白い封筒があった。手を伸ばして取り出し、その封筒の差出に目をとめる。高松の住所が書かれ、それから高山直央という名前。その名前を見た瞬間、鼓動が早まった。

部屋に入り、慌てて封を開ける。中には折りたたまれた便箋とポストカードがあった。カードを取り出し、わあ、と思わず声を上げた。夕陽が沈む空は、ピンク色と紫色のグラデーションとなって海に溶け込み、光の道が架かっている。そして便箋を開いた。

絵梨ちゃん
元気にしとる?約束守るの遅くなってごめんな。一緒に入れた絵は屋島っていう場所の風景だよ。これからもよかったら手紙でたくさん話そう。また絵も一緒に送ります。

綺麗な丸文字で綴られたその手紙を、胸に抱きしめたくなるほど嬉しさがこみ上げていった。すぐに学習机に向かい、引き出しからカラフルな小鳥が描かれた便箋を広げ、ペンを走らせる。

直央君へ
お手紙ありがとう。ポストカードの絵とても綺麗で感動しました。大切に飾っておくね。いつかその風景を見てみたいなぁ。これからも手紙で話そうね。また送ってくれるの楽しみにしてるね。

それから、直央とわたしは手紙を交わすようになった。彼はたまに風景の絵を添え、そのたびに高松に思いを馳せるようになった。

翌年、受験を控えていた孝の姿はなかった。高校生になると部活動を優先するようになった彼とはあの日を最後に顔を合わせていない。やがて妹の沙希も、叔母の娘のまこも学年が上がるに連れ、祖父母の家に来なくなった。

高校は家から一番近い総合学科の高校に進学することを決めた。同じ頃、直央から地元の大学を受けることにしたと知らされ、驚いた。あんなに美大に行くことを望んでいたはずなのに、どうして―。手紙に視線を落としたまま思いを巡らせてみても、その理由を聞くことはできなかった。

同じ中学から進む友人が多かったため、高校生活にはすぐに慣れ、充実した日々を送っていた。

生徒のほとんどが大学や短大、専門学校に進学するが、就職する生徒もなかにはいた。二年生になると卒業後は就職を考えるようになった。親が望むような地元の大学に入れるほどの学力はなく、また何より学びたいことが明確になかった。髪を明るく染め、騒ぎ立てる生徒たちがなんとなく進学するのを見ると、余計にそう思えた。

地元ではなくて、東京で働きたい。次第にそう思うようになった。 

母親はそのことに反対し、度々激しい口論をするようになった。干渉しようとしない父に対しても母は激しく当たり、家の雰囲気は険悪になっていった。

県内の大学に行かせ、一人娘にそばにいて欲しいと望む母の気持ちを理解できないわけではなかった。だけど、この狭い地元から出ることなく、ここで暮らし続けることをうまく想像することができなかった。その意思を何度伝えても、母は認めず、険悪さは増すばかりだった。

一向に変わらない娘の気持ちに母は半ば諦めているようだった。そのまま意思は変わらず、九月半ばに学校から推薦を受け、大田区にある金属加工製品を製造する会社で無事内定をもらうことができた。就職が決まると母親とはまともな会話をしなくなり、二人の間にいた口数が少ない父親は居心地悪そうにしていた。わたしは内定をもらったことを直央に手紙で伝えた。

一人で物件を見つけ、黙々と荷造りを進めていった。春休み最後の週の月曜日に引っ越すことが決まり、卒業式を終えた頃、友人たちと大阪へ卒業旅行に行くので一日早めて高松に行きたい、そう思い切って直央に伝えた。

直央はとても喜んでくれた。

久々に会うから写真入れておくな、前に会ったときと違うと思うけど。右が俺だよ、とある。

封筒から写真を取り出す。実際に顔を合わせるかのような緊張が走り、鼓動がすぐ耳元で聞こえてきた。右側に立つ青年は明るい茶髪をワックスで固め、ベージュのズボンにカーキー色のシャツを着ている。線の細かった爽やかな少年は大人の男性へと変わっていたが、人懐っこい笑顔はそのままだ。思わず顔が綻びる。咄嗟に、男性の体をまじまじと見ていたことが恥ずかしくなって写真を机に置いた。再び手紙に戻すと、当日の服装についてや高松駅で待ち合わせをしようと、と書かれていた。

ふわふわした温かさに包まれながら、早速、返事を書き、文化祭の時に部室で撮った写真を封筒にそっと入れて、切手を貼った。





この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?