見出し画像

いつか、巡礼の地で(2)

2004年3月 
直央 香川県高松市


絵梨が高松に来る。その知らせを受けたのは一週間前だった。

すぐに返事を書いて送った。再び彼女から手紙が来ると、便箋と共に一枚の写真が入っていた。小学生だった頃の記憶で止まっていたはずの彼女は制服を着て、女子三人で肩を寄せ合っている。

素早く便箋を開くと真ん中だよ、とあった。確かに絵梨だ。面影が残る真ん中の女子高校生は小柄で、色白の肌に黒髪を後ろで束ね、控え目に微笑んでいる。

大人びたが、おっとりとした雰囲気はそのままだ。手紙に目を通すと、当日の服装や到着時刻について書かれている。煙草に火を点けて、ゆっくりと煙を出しながら空気を吸い、肺に落とし込んだ。

あの日から、見えているものが色を失った。卒業後のこともそろそろ考えなくてはいけないが、何も考えることができない。なんとなく過ごす日々の中で、絵梨との再会に高揚感を覚えた。当日は控えよう、そう思いながら煙を吐き出した。

早めに到着し、携帯の画面を何度も見つめていた。大学入学を期に買った携帯電話は、普段は必要性を感じないほど放置していたが、今日ばかりは連絡することができない不便さが歯がゆく思える。絵梨が携帯電話を持っていないから仕方がなかった。

岡山から無事に乗り換えができただろうか。そう思いながら改札を出てくる人々に視線を向けると、チェック柄のロングスカートに白いブラウスを着た女の子が見える。近づくその子は白い肌をし、肩まである黒髪を揺らしている。

絵梨だ。そう認識した途端、鼓動が早くなった。

立ち止まって辺りを見渡す彼女に駆け寄ると、目が合った。光を帯びた瞳を真っ直ぐと向けている。緊張した様子を隠しながらにっこりと笑って声をかけた。
「絵梨ちゃん、久しぶり。よう来てくれたね。」
そう言うと、絵梨は安堵し、恥ずかしそうに微笑んだ。

まず駅近くのうどん屋に案内した。素気ない店員の視線に焦りながら、なかなか決められない絵梨にかけうどんをすすめると彼女はそれを注文した。向かい合って席に座り、うどんを啜ると目を大きく開いて、美味しい!と嬉しそうに言った。

「うまいよな。ここの店、けっこう有名なんや。・・・どお、少しは緊張もほぐれた?」
「・・え、あ、すいません。気を遣わせてしまって。」
「手紙の時みたいに呼び方も直央君でええし、敬語なんか使わなくてええよ。まぁ、久ぶりやから緊張するよな。」
「そうですよね、すみません。あ、敬語になってる・・・。」

その様子に俺は笑った。彼女も恥ずかしさを隠すように笑い返した。

「少しづつでええよ。この後、見せたい場所があるから食べ終わったら行こうか。」

高松駅から玉藻公園まで歩き、ことでんに揺られ、琴電屋島駅に到着した。静まり返った無人駅舎の色が剥がれ落ちたベンチに腰を下ろすと、絵梨もゆっくりと隣に座った。バス停を見つめたが、到着するのにしばらく時間がありそうだった。気まずさを感じて立ち上がり、自動販売機に小銭を入れた。緑茶とアイスティーのペットボトルを絵梨の前に差し出し、彼女は礼を言って緑茶を受け取った。

「バスが来るまで時間かかりそうやね。ほんまは車で行った方が楽やったんやけど、気遣わせてしまうかなって思って。・・・逆にたいへんやったかな。」
「ううん、そんなことないです。ありがとう、いろいろ考えてくれて。」
「なら、よかった。」
「今から行く場所、昔、直央君が描いてくれた屋島ってところ?」
「そう。ここをシャトルバスで少し登れば山頂があるんよ。その景色を絵梨ちゃんに見せたかった。てか、よく覚えてたね。」

うん、と言って絵梨は目を輝かせた。

つられて口元が緩み、ベンチに置いていたトートバックに手を伸ばそうとした。するとコートのポケットから何かが落ち、足元を見ると赤い煙草の箱だった。咄嗟に拾おうとすると、白い小さな手が先にそれを拾い、手渡された。

真っ直ぐと見つめる無垢な瞳に、見透かされているようで視線が泳いだ。目を逸らし、トートバックからA4のスケッチブックを取り出し、絵梨に差し出す。

ゆっくりとページを開くと、わぁ、と声をあげ、楽しそうに次々に捲っていく。山頂の鳥居から望む街並み、咲き誇る紫陽花と霞む島々に、瀬戸内の夕陽。昔、描いた水彩画だった。

「直央君の絵、他の人たちには同じようにしか見えない風景の中に、直央君にしか見ないものが映し出されて見える。うまく説明できないんだけど、優しい幻想みたいなもの。」

零れ落ちてきたようにそう言って、ごめん、と絵梨は恥ずかしそうに顔を伏せた。俺は慌てて口を開いた。
「ありがとう、そんなふうに言ってくれて嬉しいよ。」
「こ、こちらこそ見せてくれてありがとう。」

駅舎から何人かが外に出ていく先を見ると、バスが止まっていた。立ち上がり、中へと乗り込んだ。

真ん中あたりの窓側に絵梨を促し、窮屈なシートに腰を下ろした。絵梨の肩に小さく触れ、横目で彼女を見ると、少し困ったように前を見つめていた。

バスは出発し、山上へと繋がるスカイウェイを登っていく。さほど走らないうちに、小高い位置から田畑が見渡せた。トンネルに入り、暗闇を抜けた瞬間、絵梨は声を上げた。

鮮やかな水色の空と光がそよぐ海が鏡のように広がり続け、水平線まで島々が浮かんでいる。綺麗だね、そう言ってはしゃぎながら瞳を大きくする絵梨に、そうやね、と言って笑った。再び窓にはりつくようにして眺める小さな背中に当たらないよう、俺も窓を覗き込んだ。

山上の駐車場に着き、展望台に向かう途中に「四国霊場第八十四番 屋島寺」と彫られた石柱が現れた。何度か訪れたことのある境内に足を踏み入れると鈴の音が響き、すげ笠に白い衣を身に着けた巡礼者が歩いている。この地では当たり前の光景に、心を奪われたように見つめる絵梨の耳元で囁いた。
「お遍路さんやな。」
「お遍路さん?」
「四国には弘法大師が修行した八十八か所の寺があるんよ。一番最初の寺は徳島にある霊山寺、そこを出発して高知、愛媛を回って、最後はさぬきにある大窪寺が最終地点。ご利益のために巡礼する人、けっこうおるんやで。」
「でも、お寺を八十八も回らなきゃいけないんでしょ?すごくたいへんそうだね。」
「全部で千㎞以上あるからな。果てしないな。」
「ここは八十四番だから最後の方なんだね。あ、でも一番から行かなくていいの?」
「順番通りにやる人もおるけど、順番にこだわる必要ない。行きたいところからやって、少しずつ巡ってもええんよ。」
「そうなんだね。じゃあ、今から少しずつ行けば、おばあちゃんになる頃には全部行けるよね!」
「はは、そんなにかかるかぁ~。」

屋島寺を後にし、売店が並ぶ通りを歩いた。店の入口には「瓦」と貼られ、外に置かれた素焼きの小さな皿が詰められた袋を購入した。そこから上に向かっていくと、窓から見えた海と島々の絶景が、視界いっぱいに広がっていた。突き出た入り江に建物が立ち並ぶ市街地に、ことでんで通過した春日川も見渡せる。入り江の少し先にある大きな島を指した。

「あれが小豆島。そんで、あれが直島やな。絵梨ちゃん、島には行ったことある?」
「ううん、行ったことないんだ。いつか行ってみたいな。」
「島もええよ、のんびりしてて。あ、この瓦投げてみ。願いを込めて。」
「どうやって投げればいいの?」
「こうやって!思い切り、海に向かって。」

瓦は勢いよく空中を飛び、だんだんと真下の海へと落下し、見えなくなっていった。絵梨の手にザラザラした厚みのある瓦を乗せた。彼女は水平線に向けて思い切り投げた。

夕陽のグラデーションが水平線へと溶け、やがて燃えるようなオレンジ色の光が静かに海と重なっていく。照らされた島々や漁船の黒い影と煌めく海のコントラストに吸い込まれていくようだった。目を細める絵梨の横顔を見て、同じ光景を見たことがあるような不思議な懐かしさがかすめていった。

屋島から瓦町駅に戻り、アーケードをぶらぶらと歩き、店を探した。絵梨は街の喧騒に慣れていないようで辺りを見渡している。

「何か食べたいものある?」
「直央君のおすすめのお店でいいよ。」
「居酒屋になるんだよなぁ。」
「それなら居酒屋でもいいよ!」
「・・・店内うるさいけど、大丈夫?」
「うん、大丈夫。」

メイン通りを外れた路地裏にある小さな居酒屋の扉を開けると、騒がしい店内の一番奥の座敷へと案内された。席に着いて、メニューを広げる。豊富なカクテルに悩んでいる絵梨に、カシスオレンジを指すと、それにすると言って初々しい表情を浮かべた。俺はビールを選び、シーザーサラダ、唐揚げ、出汁巻きなども注文した。隣から聞こえる大勢の賑わいが絵梨の声に被さり、彼女に顔を近づけた。

「すごい騒がしいね。」
「みんな、陽気になるからな。平気?」
「うん、平気だよ。」

座敷を漂う煙に駅舎で落とした煙草のことを思い出し、吸いたい衝動に駆られたが、我慢した。所在ない手元を左手に絡ませ、注文を待った。

お待たせしましたぁ、と若い男の店員が注文した品を次々と並べ、足早に去っていった。グラスを絵梨に向けて小さく上げると、彼女は恥ずかしそうに笑って、持っていたグラスを重ねた。

何年もの間、交わしてきた手紙の文面をなぞるようにして、思い出を振り返り、会話は弾んでいった。空いたグラスや皿を端に置き、唐揚げを取り分けて絵梨に渡した。

「孝はどうしてるんやろなぁ。」
「確か東京の大学に行ったって聞いたよ。直央君、今は連絡してない?」
「ああ、高校も違ったし、成人式も行ってないからなぁ。それなのに、絵梨ちゃんとはこうして繋がってる、不思議やね。」
「そうだね。」

ほんのりと顔が赤くなった絵梨は嬉しそうに見つめた。話が途切れ、何か話題を振ろうと咄嗟に質問する。

「そういえば、付き合ってる人とかおるの?」

絵梨は目を大きく見開いてから、恥ずかしそうに声を落とした。

「いないよ。わたし、付き合ったことないんだ。」
「そうなんや、いそうなのに。」
「・・・直央君は?」
「いたことはあるけど、いまはおらんかな。」

間を置いてから、絵梨は笑顔を浮かべ、声を高くした。

「これから東京に出るし、わたしも良い出会いがあればいいなぁ。」

良い人がおるとええなぁ、と笑い返した。
酔いで熱くなった体内に鼓動が押し寄せ、グラスを手に取りビールを流した。早まるその音を掻き消そうとしたのか、滑り出た返事の裏側へと酒を煽ったのか、よくわからなくなった。

話題は東京のことになり、絵梨は希望に満ちた表情で、これからの都会での生活について話しはじめた。彼女から内定が決まったと聞いたとき、嬉しさよりも羨ましさの方が勝っていた。

自分が行くはずだった東京―。

そこで日本画を学び、画家を志すはずだった。きらきらとした瞳を向けて話す絵梨から一瞬、視線を落とした。

「新しい環境で生活するのほんまたいへんやと思うけど、楽しみやね。」
「うん!不安もあるけどね。」

すべてを打ち明けてしまいたい。

母親にも友人にもずっと言わずに蓋をしてきた思いを彼女に聞いて欲しい。
ふとした時、流れ落ちてくる冷ややかな礫が蓄積した胸の内から、喉元へと押し上げられていくのを感じ、首元に触れた。

「直央君は大学楽しい?」
「・・・まぁ、それなりにね。一、二年はいかに楽して単位取るか考えてバイトばっかりやったな。今年は就職活動の時期なんやけど正直実感なくて。だから、絵梨ちゃんは立派だよ。」
「そんなことないよ。ただ勉強したくなかったから。」

絵梨は照れ臭そうに笑ってからグラスに添えられた手元を見つめた。酒を流し、俺も彼女の手元を見つめながら呟いていた。

「本当は、美大に行きたかった。」

絵梨は目元を動かし、心配そうに見つめた。

「絵梨ちゃんは優しいよな、そのことを聞かないでいてくれたのに。」
「・・・本当はずっと気になってたよ。でも事情があると思ってたから。直央君、よかったら話して欲しい。」

この時、初めて彼女の真っ直ぐな瞳の色を捉え、しばらく見つめ合った。小さく息を吸い込み、口を開く。

「・・・高三の春、父さんが亡くなったんだ。それで進学を断念した。」

行ってくるよ、そう言っていつものように出勤したはずの父の背広が目に浮かぶ。
その日、職場で致死性の不整脈を起こし、帰らぬ人となった―。

廊下を走る音がし、黒板から顔を向けたときの息を切らした担任の表情、母を待っていた冷たい玄関の外で降りしきる雨音は、今でも時折追いかけてくる。

「母さんはほとんど働いたことがない人で、経済的に諦めるしかなかった。それでも仕事を掛け持ちして働き出して、地元の大学には行かせようと必死だった。だからさ、今まで絵しか描いてこなかったんやけど、死ぬ気で勉強して国立大学に滑り込んだ。奨学金借りてなんとか進学できてありがたいって思ってる。だけど、本当は絵画がやりたかった。」
「・・・そうだったんだね。」
「まぁ、美大を出ても画家になんかなれるかわからんかったし、趣味で十分なんやけどな。ごめん、湿っぽい話になって。」
「そんなことない。辛いのに話してくれてありがとう、直央君。」

天井の光りを受け、潤んだ黒目が滲んで見えた。俺は口元を緩めて笑って見せた。

店を出ると、薄手のコートの上から冷たい夜風が触れていった。騒がしいアーケードを歩き、駅へと戻りながら絵梨を見送ることにした。
ここだ、と言って宿泊先のホテルの入口で止まり、律儀に頭を下げた。

「直央君、どうもありがとう。夕飯もご馳走様でした。すごく楽しかったよ。」
「こちらこそ来てくれて本当にありがとうな。俺も楽しかった。明日気をつけて楽しんでおいで。」

じゃあね、と屈託のない笑顔を見せてから、背を向ける絵梨の細い腕に反射的に手を伸ばしかけ、名前を呼んだ。彼女が振り返ると、素早く手を戻して携帯を開いて見せた。

「あ、お互い忙しいし、手紙やとたいへんやから、これからはメールせん?アドレス伝えとくよ。携帯買ったら連絡して。」

そう言ってカバンからメモを取り出そうとすると、絵梨は右肩からリュックを前に移動させて中を探り、白色の携帯電話を取り出して見せた。驚くと、絵梨はいたずらぽく笑った。

「直央くん、言い忘れててごめんね。高松に行く直前に買ったんだ。わたしもアドレスを聞こうと思ってたんだけど。」

絵梨も携帯を開き、アドレスを交換した。それから自動ドアを通り抜け、ロビーへと向かう背中を少しの間見つめてから、駅へと向かった。

イーゼルにキャンバスを立て掛け、パレットに絵具を出す。真っ新なキャンバスを目の前にするのはいつぶりだろうか。受験勉強に専念するようになり、しばらく絵から離れた。

そして、描けなくなっていた。体の一部だったはずの描くという行為が記憶から抜け落ちたように、できなくなった。ペンや筆を握っても指先から力なく落ちていくだけだった。

いつか必ず描けるようになる。

父の死と夢を絶たれた深い悲しみに光が差せば、必ず―。そう思いながら、過ごしてきた。

思い切り描きたいという感情の疼きに、筆はすらすらと滑っていった。きっと、絵梨のおかげだ。彼女の優しい笑顔が蘇り、口元が緩んだ。

荒野に一縷の光が色を芽吹かせていく。かつてのように、どこまでも自由に―。

長時間没頭し、筆を動かしているうちに出窓から西日が差し込み、カーテンが小さく揺れた。一旦手を止めると背後で気配がして振り向いた。そこには仕事から帰ってきたばかりの母親がいた。暗い表情で呆然と立ち尽くす姿に、鼓動が耳元をかすめ、視線を床に落とした。

ただいま、そう言って取り繕うように笑顔になり、キャンバスに近寄る。

「屋島から見た瀬戸内?綺麗だわ。」
「急に描きたくなって・・・。でも、腕はだいぶ鈍ってる。」
「十分上手よ。」
「・・・ありがとう。」
「もう、てっきり絵はやめたのかと思っていたわ。」

その言葉に薄暗い靄が広がり、視界が覆われていく。今まで抑えてきた感情に爪が食い込むほどの力で握り締め、体が小刻みに震え出した。

「それは母さんの願望だろ。」
「・・・な、何を言ってるの?わたしはそういう意味で言ったんじゃ・・・。」
「父さんは美大に行くことを応援してくれたけど、母さんは昔から反対してた。本当はずっと絵をやめて欲しかったんやろ?描かないほうが都合がええんやろ?そうすれば、息子の挫折から目を背けられるって、そう思ってるんやろっ!」
下を向いたまま部屋を出よとすると、母親の声が追いかける。
「ち、違うわ!そんなわけないじゃない、お母さんは、直央を東京に行かせられなくて申し訳なく思ってるのよ。わたしはあなたのことを一番に思ってるの!」

もういい、そう吐き捨てて階段を駆け下り、家を飛び出した。直央!と何度も叫ぶ声が外まで聞こえるのをエンジン音で掻き消し、車を出した。

小高くなっていくカーブを何度か超えたところで、砂利地に車を駐めて歩いた。木々が茂る道を進むと視界が開け、薄闇に瀬戸内が広がっている。ぽつぽつと灯る街の灯りを見つめながら、煙草を取り出し、火を点けた。冷たい風が流れ、体内に入り込む煙に気持ちが和らいでいく。煙が風に連れられ、木々の中へと漂っていった。

肌寒い空気に腕をさすった。それから、目を閉じる。

静かな夜の気配が海と一体になっていくのを、ただ一人で見つめることしかできなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?