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いつか、巡礼の地で(3)

2004年4月 絵梨編

入社式を終え、一ヵ月の研修からはじまり、車両に使用される細かい製品の名前、製造過程、品質検査の流れなどを学び、メモはびっしりと埋まった。

研修が終われば工場勤務となり、先輩に教わりながら大量の業務を必死に覚えようとした。それに全くしてこなかった家事のたいへんさを痛感し、仕事と家事の両立で目まぐるしく日々が過ぎていった。

互いに忙しく、返信が遅くなることもあったが、直央と連絡を取り合っていた。励ましの言葉に救われ、屋島で見た瀬戸内が脳裏に浮かぶと、飲み込まれそうな忙しない波が引いていき、心地よく揺れていたあの海の穏やかさが戻って来るようだった。

失敗しては上司や先輩に叱られ、何度も辞めたいと思った。しかし、親の反対を押し切って、自分の意志を貫いた以上、意地でも辞めないとしがみつく思いだった。

仕事と生活に慣れ、休日に家事をため込むことが減り、東京の生活を楽しめる余裕ができたのは二年ほど経った頃だった。休日になると電車に揺られ、都内のいろんな街を散策したり、仲の良い同期と買い物をし、出かけることが増えた。

金曜日を迎えた今日は定時に会社を出た。真っ直ぐ家に帰らず、軽い足取りで新宿駅へと向かった。この後、哲と会うことになっている。


西口で降り、ガラス張りのブランドショップの前で携帯を見つめている哲に駆け寄った。わたしに気が付くと白い歯を見せてにっこりと笑い、手を上げる。大学時代ラグビーをやっていたという彼は、スーツの上からも胸板の厚さがわかり、がたいの良さが窺える。
わたしの肩をそっと抱き寄せてから、大きな手が右手を包み込んだ。

「哲さん、遅くなってごめんね。待った?」
「俺もさっき終わったところ。むしろこっちまで来てもらって悪かったね。」
「ううん、大丈夫だよ。」
「この前さ、会社の人に美味い店紹介してもらったから、絵梨を連れて行きたくて。」
「それは楽しみだなぁ。」

そう言いながらわたしと哲は笑顔ではしゃぎ、店へと歩いた。

彼と付き合ってから三か月が経つ。哲との出会いは同僚から誘われた飲みの席だった。その日の仕事終わりに品川の居酒屋に向かい、そこにいたのが哲だった。職場であまり見慣れないスーツ姿に、いかにも体育会系という感じで、今まで接点を持ったことのないような雰囲気の男性だった。

彼は静岡県出身で、一浪して都内の私立大学に入り、今は西新宿の不動産会社で土地活用の営業をしていると言った。人見知りで緊張していたわたしに気を配り、話を引き出そうとしてくれたおかげで会話も弾んだ。

その後、哲に誘われ、二人で出かけるようになった。なんとなく行ってみたいと思っていたところに、それなら行こうよ、と言って積極的に連れ出してくれた。二歳年上の彼は面倒見が良く、明るい性格で冗談を言ってよく笑わせてくれた。

三度目に会ったとき、仲見世通りを散策し、浅草寺に行った。その後、スカイツリーの展望台に行き、その帰りがけに告白された。

初めて男性から告白され、交際がはじまったことで日々が鮮やかに塗り替えられるような高揚感に包まれていたのは事実だった。

でも―。

何度も直央のことが頭を過った。凛とした目元を細めて、光を吸い込んだ海を見つめていた彼の横顔。良い人がおるとええなぁ、そう笑顔で返す表情が過るたびに棘が刺さるような小さな痛みを覚えた。それに、かつて恋人がいたと言っていたのを思い出した。別に自惚れていたつもりはなかった。手紙を交わしていただけで、自分は直央にとって特別な存在なのだと、いつの間にそう思っていたのだろうか。

ひしひしと、胸の奥底に蓋をしていたものが溢れそうになるのを抑え、言い聞かせた。このままの関係でいい。哲が恋人で、直央は遠方に住んでいる友人だ。これからもたまに連絡を取り合う関係が続くだけで、それでいいのだと。

元気しとる?そう直央から久しぶりに返信があった。彼は岡山県にある医薬品の会社に内定をもらい、実家を出た。メールを打ち込みながら、哲のことを伝えるかどうか考えた。いや、別に言う必要もないと、そう言い聞かせて布団に横たわり、天井を仰いだ。

米国の大手投資銀行が倒産したことで世界的な経済危機へと陥り、日本経済を揺るがせた。そう連日のようにニュースが流れ、時事に関心などなかったが、目にする度に不穏な空気を感じた。

年度末が近づき、今日は一本早い電車に乗って出勤した。事務所から更衣室に向かう途中、既に出勤していた上司が足早にやって来た。

「大柴さんちょっといいかな。」

彼の背中を追い、応接室に入り席に着いた。その途端、鼓動が波打った。張りつめた空気のなかで、彼は机に置いていた手を組み直した。何か重大なミスをしたのだろうか。あのぉ、とおそるおそる口を開こうとした。

「大柴さん、本当に申し訳ない。」

突然頭を下げ、言われたその言葉に呆然とし、差し出された一枚の紙に視線を落とした。

解雇予告通知書

頭の中が白く覆われ、鼻の奥が痛むように熱くなった。
「本当に申し訳ない。この不況で人員削減せざるを得なくなってしまったんだ。大柴さんは真面目に頑張ってくれていて、こちらとしても非常に残念なことなんだが・・・。」
「じゃあ、どうしてですか?」

咄嗟に強い口調で聞いた。上司は困惑した表情で、間を置いてから答えた。

「大柴さんは高卒だから。こちらとしても心苦しいが、まずは学歴で線引きをしなくてはいけない。だから本当に申し訳ない。」

その言葉の後のことは何も頭に入らなかった。繰り返し頭を下げる姿が形式的な慰めに思え、今後の事務手続きの説明が憤りを冷ややかに抑えつけた。息苦しさのなかで心音が響き、膝の上で汗ばむ手のひらを握りしめ、話が終わるのを耐えた。
 
泣きはらした顔でアパートに向かいながら哲に電話をかけた。しかし、繋がらない。涙が溢れた。仕事が忙しいという理由で、最近は彼の返信が遅く、以前ほど会ってなかった。

「話したいことがある」そう哲から言われ、新宿のカフェで待ち合わせた。彼と会うのは一か月ぶりだった。抜け殻のようになった体を引きずるようにして、なんとか店に着いた。先に到着していた哲は腫れあがった目元を見て、驚いていた。

顔を隠すように俯いたまま、解雇されたことを話した。途中涙が零れ、嗚咽しそうになる。彼は心配そうに聞いていた。そう話し終えた後で「別れたい」と切り出された。

言葉につかえ、声が出ないまま視線を上げた。彼は申し訳なさそうに眉を顰めた。

「好きな人ができたんだ。ごめん。」

再び泣き出しそうになるのを抑えようとすると、わなわなと肩が震え出した。

どうして、そんなことを言えるの。どうして―。

失意の中にいるのを見計らったように、別れ話を切り出す男を前に悲しみを超えた怒りが込み上げてくる。本当は薄々、気づいていたのかもしれない。だけど、どこかでそうじゃないと言い聞かせていた。問い詰めようとしても、胸の痞えに言葉が出ない。その代わり、とめどなく涙が流れた。しばらくして哲は立ち上がり、もう一度ごめん、と呟いてから伝票を持って店を去って行った。

上京して築き上げたものを、あっけなく失ったことで、今まで踏ん張っていた力が嘘のように抜け落ちた。失業手当の申請も、職探しも、しなくてはいけないとわかっていながら起き上がることができなかった。狭いワンルームで布団にうずくまって泣き続け、力尽きて空腹になれば、コンビニで適当に買ったものを腹に流した。

布団に横たわっていると、携帯の受信音がした。気怠く腕を動かし、画面を開くと数か月ぶりに直央からのメールだった。

絵梨ちゃん、久しぶり。新年度で忙しいと思うけど、お互い無理せずに過ごそうな。この間、小豆島に行ったんよ。その時に寒霞渓っていう有名な渓谷に行ってきたよ。

写真を開くと、寒霞渓、と彫られた大きな岩の向こうで、降り注ぐ夕陽を受けた水平線が燃え、海と島々を包み込んでいる。その美しい光景に微かな温もりが灯り、見つめていた画面が滲み出す。携帯を胸に抱えるようにして、肩を震わせて泣いた。
 
ハローワークで失業手当の申請をし、履歴書と職務経歴書を作成した。それから、安定した大手企業の事務職で、高卒でも可能な求人を探した。しかし、この経済情勢のなかで求人自体が少なく、あったとしても大抵は大卒が条件で、稀に短大か専門学校卒があるくらいだった。製造業も探したが、壊滅的な影響を受け、求人がない。

予期せぬ不況に直面し、そのなかで再就職するのに、また、安定した企業に就くために高卒がいかに不利であるかを思い知った。ようやく見つけた事務職の求人に履歴書を郵送するも、書類一式返却された。他の業種でいくつか面接に進むが、全て落とされた。 

地元に残るよう、切実に訴えていた母の顔が過る。

自分が間違っていたのだろうか―。

母の言う通りにしていれば、こんな思いをしなくて済んだのかもしれない。そう責めれば責めるほど、「高卒」という肩書に引け目を感じ、底知れない暗い淵に引きずられていくようだった。採用を勝ち取り、足元に散らばった積み木を一つずつ拾い上げ、元の高さに積み上げていかなくてはならない。そんなスタートラインにすら立てないまま、途方もなく思える先を目指すことが、どうしようもなく怖くなっていった。

最低限の生活を送るのに、家賃や光熱費、切り詰めた食費だけでも一か月で十万円ほどは消えてしまう。次回で失業手当は最終認定を迎え、その後は収入が絶たれる。わずかな貯金を切り崩しても、それだけではままならず、すぐにでも働く必要があった。駅構内に設置されている求人のフリーペーパーをめくり、働けるところならなんでもいいと必死に探した。

近場のコンビニのアルバイトが決まった。就職が決まるまでの間、ある程度の貯金ができるまでの間、働ければいいとそう言い聞かせた。そのはずが、いつの間にか正社員を目指すことを放棄し、シフトを増やし、ホテルで皿洗いの仕事を掛け持ちするようになった。二つの収入を合わせれば、以前とたいして変わらず、節約をすればなんとか暮らせた。

正社員を目指す理由も、探す意味も見失い、現状の生活を保つことだけに邁進し続けた。

若いから大丈夫、いざとなれば、いつでもやり直すことができる。

そう言い聞かせながら、気づけば月日が流れていった。

あの日のメールを最後に、直央からの返信は途絶えた。
何度かメールを送ったが、返事はなかった。手紙を送ろうとした。
しかし、直央の一人暮らしの住所を知らないことに気がついた。

彼のことを案じながらも、日々どうにか生き抜くことでわたしは必死だった。


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