見出し画像

いつか、巡礼の地で(4)

2009年6月下旬 
岡山からそして京都へ 直央編


部屋の外では雨が降り続いていた。梅雨に入り、カーテンの隙間から漏れる薄暗い外の色が、電気の消えた闇のなかを僅かに明るくしていた。閉じ込められたように動けない体の中に、雨音の陰鬱な影が広がっていく。

病人のようにベッドに横たわったまま、重たい瞼を持ち上げ、部屋を見渡した。カーテンレールに吊るされたままの洗濯、灰皿に溜まった煙草の吸殻、電池が飛び出た時計に、雪崩れのように落ちた何冊もの画集。

一昨日、感情のままに部屋を荒らした。その反動で眠り続け、今だに力が入らない。

三日前、職場を退職した。

四月から異動してきた新しい上司は今までのような既存の取引先を回るだけではなく、顧客の新規開拓を指示した。契約を一件も取れない俺はすぐに目をつけられ、容赦なく怒鳴りつけられた。

無能野郎、契約も取れない給料泥棒が。日常的に受けてきた侮辱的な言葉は、次第にエスカレートしていった。書類を激しく床に叩きつけ、てめぇ、やる気あんのか!と罵倒された。

恐怖で抉られていく傷口に、朝を迎えると過呼吸を起こし、鉛のような体を引きずって出社した。外出先から会社に戻る時刻が近づくと首筋が熱く強張り、沁みるような痛みが走った。上司を前にするとその熱に支配され、言葉が喉元でつかえ、視界が滲み出した。

何社も落ちてようやく内定を掴み、入社した会社だった。それに深刻な不況に揺らぐ今、辞めるわけにはいかないと追いつめていた。

でも、限界を超えていた。

食欲がなくなり、元々細身だった体は痩せ、性的な欲求に駆られることも消えた。そして、ベッドから起き上がることができなくなった。何日か仕事を休み、退職届だけはと、やっとの思いで出社し、震える手で上司に差し出した。彼は大きなため息をつき、その紙を机に叩きつけた。

抜け殻のようになったまま瞼を開いた。耳元に押し寄せる雨音に、頭を抱えながら起き上がった。

やめろ。

体が小刻みに震え出す。耳を塞いだ。

もう、やめてくれ―。

そのまま一筋の涙が流れ、嗚咽した。

どれだけ惨めで情けない思いをすればいい―。

髪をかきむしった。このまま暗澹のなかにのまれ、消えることができたらどれだけ楽になれるだろう。朦朧とした意識のなかで、何日か飲まず食わず過ごせば骨の浮いた薄い皮だけが残り、やがて朽ちることを思った。

簡単なことだ、生きるよりもずっと―。

地を踏みしめて生き続けることは、無機質な闇に野ざらしになるより、よほど難しい。それなのに難しい生を、なぜ生きようとしている―。

首を小さく振って、立ち上がった。足元に落ちた一冊の画集を拾う。

葉月崇画集

幼い頃から集めてきた画集だ。

父に連れられ、葉月崇の展覧会に訪れたあの日。白い壁にかけられた巨大な額縁の風景に吸い込まれる少年の目に映った世界、その小さい体に光が零れ、静かな波紋がそよいでいった。絵に張りついたままの俺の腕を父が引っ張り、いやだぁ、と言って泣きべそをかく声が静寂な館内に響き、やがて聞こえなくなる。

再び涙が零れ落ち、画集の表紙が滲んだ。

その日から、葉月が描く幻想を追い求め、絵を習いはじめた。才能が花開き、いくつもの賞を取ってきた。彼のような画家になることだけを夢見ていたのだ。

肩を震わしながら鼻を啜り、腕で何度も目元を拭った。

電気を点け、クローゼットからキャンバスを引っ張り出し、埃を被ったイーゼルに立てた。

もし、まだ俺に描けるなら―。

鼻から息を吸った。絵の具のチューブを押し出し、青と黒を混ぜ合わせ、キャンバスを塗りつぶしていく。衰弱した心の悲鳴に蓋をするように瞳孔を広げ、狂気的な精神力を注ぎ込んだ。震える筆で白色を溶かし、何度も重ねる。次第に体が軽くなり、頭は冴えわたっていった。

いつの間にか雨音は遠のき、日が暮れていた。鈍い痛みが額や頭にまで届きはじめ、充血した瞳から血が滴るように、汗が流れた。

どんなに身を削っても、絶対に耐え抜いてやる―。

そうしがみつく思いで筆を止めることはなかった。

乾ききっていない絵を同じサイズのキャンバスに重ね合わせ、バッグに入れた。床にあったカバンを拾い上げ、家を飛び出し、車のエンジンをかけた。

高速に乗る頃には再び雨足が強まり、フロントガラスを激しく打ちつけ、視界の悪さに朦朧とした靄が広がっていく。兵庫を通過し、京都南インターチェンジで降り、疎らなライトに照らされた夜道を走った。

横殴りの雨が続くなか京都の市街地に入った。オフィスビルや商業施設が立ち並ぶ四条通りは寝静まっている。八坂神社付近のパーキングを見つけ、車を停めた。コンビニに入り、何も食べていなかった反動で、目に入った商品を片っ端からかごに入れていった。車に戻り、弁当やパンを夢中で空腹に流し込むと、激しい眠気に襲われた。

翌朝、昔の微かな記憶を辿りながら、京都大学を通過した。広い交差点を右折し、慈照寺方面を目指す。

大通りから外れたパーキングで車を止めて、傘を広げ閑静な住宅街を歩き出す。打ちつける雨が透明なビニール傘にはりつき、頭の上で無数の水滴が滝のように流れていった。

しばらく進み、白い塀で囲われた邸宅の前で足を止める。見つめる先には小さく「葉月崇美術館」と書かれている。その名を、隣接する数寄屋門の横にある表札でも確認し、インターホンに手を伸ばした。一度止め、そして、再び手を伸ばした。

はい、と老人の声が聞こえる。緊張のあまり声が出ず、誰ですか?と怪訝そうな声がインターホン越しに聞こえ、慌てて喉の奥から声を振り絞った。

「突然、すいません。あの、わたしは高山直央と申します。葉月先生の絵画を幼い頃から拝見していて影響を受けた者です。一度会ってお話を聞いていただけませんか?」

しばらく沈黙が続き、深いため息がした。突然の訪問に不審がるのは当然だった。やはり無理か、そう視線を落とすと、扉が開く音がし、引き戸の隙間から着物姿で傘を差した老人がやって来るのが見える。年老いているが、背筋の伸びた大きな体格をし、うっすらと白髪を生やしている。彼は厚い眼鏡の奥で目を細めた。

部屋に通され、向かいの席に葉月崇が腰を下ろす。尊敬していた偉大な画家を前に束の間感慨を覚えたが、我に返り、汗ばむ手の平を膝の上で握り、口を開いた。

「わたしは幼い頃、葉月先生の作品と出会い、本格的に絵をはじめました。先生の画集も全て持っていますし、展覧会があれば必ず足を運びました。中学生の頃、表舞台に出られない先生の貴重な講演会に参加し、こちらの美術館を知り、家族で訪れたこともあります。幼い頃は教室に通い、高校生の時に権威ある賞を受賞したこともあります。当時、わたしは画家を志し、描くことで本質的に生きていました。」

葉月は何も言わず、目を閉じている。俺は話を続けた。

「当然美大に進学するつもりでした。でも、父が亡くなり、叶うことができませんでした。そのため、制作からも離れていました。でも、先生のような画家になりたいという思いを諦めることができません。絵画に身を置き、もっと学び、自分だけの境地を確立させたいという夢を捨てることができないんです、どうか、わたしを弟子にしてください。」

しばらく沈黙が続いた。小さく息をつき、ようやく葉月が口を開いた。

「不運な境遇には同情する。しかし、長年絵画から離れていた君が、画家を志すことは到底厳しいことだ。それに君の目の色は負の感情に駆られている。静謐な幻想を淀ませる悪い感情に。そうではないかね?」

黙ったまま下を向いた。何も言うことができない。俺は足元に置いてあったカバンからキャンバスを取り出し、葉月の前に置いた。彼は目を見開き、無言で絵を眺めた。黒い海の波濤が巨大な蛇のようにうねり、海の上で一人、淡い灯りを照らす人物が歩いている。

「確かにその通りです。わたしは現実から逃げてきました。それに迷惑なのは十分承知しています、その絵を見て、どうかお考えください。・・・お願いします!」

そう言って深く頭を下げた。

どれほど時間が経っただろう。

葉月は無言でキャンバスを見つめたままだった。背中から汗が伝った。
席を立つ音がし、顔を上げると葉月は部屋を後にしようとした。熱くなっていく目頭を押さえ、俯いた。

「まあ、君に機会をやらんでもないなぁ。」

背を向けていた彼はゆっくりと振り返り、硬かった表情を緩めた。

「い、いま、なんて・・・。」
「君の境遇と申し分ない画力。興味が湧いたよ、高山くん。」

軋む階段を上がり、いくつかの部屋を横切り、一番奥の部屋へと通される。焦げ茶色の床板をした六畳ほどの空間があり、壁に面した机には筆や絵の具がずらりと置かれ、右側には真っ新なキャンバスが壁にもたれている。

「ここは以前、わたしがアトリエとして使っていた部屋だ。自由に使っていい。布団なら隣の部屋にあるし、浴室もその向かいにある。あと、君は家事はできるかな?買い出しや、料理、掃除なんかを。」
「一人暮らしをしていたので、ある程度は・・・。」
「それはいい。わたしは妻に先立たれて独りが長いんだが、家事は大の苦手でね。最近まで妹に来てもらっていたんだが、彼女も家のことで忙しくて来れなくなってしまってね。そこで君にお願いしたい。どうだろ、悪くない交換条件だろ?」
葉月はいたずらぽく笑った。俺もつられて笑みがこぼれた。
「料理も洗濯も喜んでやります。」

基礎的なデッサンからはじまり、顔料の溶き方など画材の使い方、古典模写から教わった。それからスケッチに行くように言われ、近くの慈照寺や南禅寺、市街地にある知恩院などを訪れ、古都の景観を好きなだけ描くことのできる喜びを噛みしめた。

部屋に戻ると机に置いたままだった携帯が鳴っていた。画面を開くと、母の名前が表示されている。しばらく画面を見つめたままでいたが、おそるおそるボタンを押し、電話に出た。あぁ、よかったあと号泣する母の声がした。鼻を啜り、落ち着きを取り戻そうとしながら涙声で話しはじめる。

「今日、直央の部屋に来たの、そしたら、部屋の様子がおかしくて、あなたに電話も通じなくて、職場に連絡を入れたの。そしたら、退職したって聞いて・・・。直央、何があったの。今、どこにいるの?」
「・・・京都にいる葉月先生に弟子入りをした。」
「葉月って、直央が昔から尊敬している先生でしょ。どうして・・・。」
「驚かせてごめん。でも、どうしても諦め切れんかった。どうにか掴みとったんだ。だから、しばらくはそっとしといてほしい。いつか必ず戻るから。」
「だめよ!お願いだから今すぐ帰ってきてちょうだい!一度話をしましょう、ね、直央。」

再び泣きじゃくる母の声に胸が痛んだ。しかし、同時に湧き上がる憎しみを抑えることができなかった。なるべく冷静に努めようと声を落とす。
「ごめん、切るよ。また、必ず連絡するから。」
「ま、待って!・・・」

無理やり電話を切った。冷たく当たった罪悪感と介入しようとする苛立ちが絡み合い、目を伏せた。再び着信音が鳴り、切れる。繰り返されるその音がしばらくアトリエに響き、おさまるのを待った。

部屋の引き渡しの日が決まり、一度アパートに戻った。必要なものは車に積み込み、他は業者に回収させ、部屋を完全に引き払った。すると、清々しさに包まれた。いよいよ本格的に京都での暮らしがはじまるのだと、胸が高鳴った。

季節は夏を迎え、蝉の声が響いている。晴れ渡る空に青紅葉が揺れる山道を登り、間もなく東塔へと到着した。

大講堂から回り、本堂を目指した。整然とした木々に囲われた中央に巨大な根本中堂が見え、先ほどまでの清々しい空の青さが、霊妙な白へと変わり、ひんやりとした空気が肌に触れていった。疎らに参拝する人々を横目にスケッチブックを広げ、描いていく。

暗い回廊を進み、階段を上がった。巨大な欅の柱が連立する内部の中央に薬師如来が祀られ、その前で千年以上灯り続ける法灯が淡い光を放っている。

雅楽とともに僧侶たちが本堂に集まりはじめた。少し離れた後ろで正座をし、導師が経文を開き、法要がはじまる。薄暗い御堂で灯が揺れ、蝋燭の香りに安らぎを覚え、ゆっくりと目を閉じる。

響く読経が現世と後生を繋ぎ合わせていくように、霊験の光が瞼の上で微かに揺れ動くのを感じた。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?