見出し画像

気持ち悪いの向こう側

こんにちは。

yoga講師のももこです。

今回のブログは
気持ち悪いの向こう側の体験をつづります。
心を強くして読み進めてください(笑)



10.1(日)
は自坊での法要がありました。

法要の前の私の仕事は掃除です。

今回の事件は坪の内
の掃除で起こりました。

皆はもうご存じでしょうが、
事件だなんて言いながら
とっても小さいことなんだけどね(笑)

まぁ、気楽に読んでくださいな ニシシ


坪ノ内


坪ノ内とは
建物に囲われている狭い庭のこと。
だから他の場所とちがって
閉鎖的。


普段は中に立ち入らないし
鳥、猫、他の外敵から守られているからか
カタツムリちゃんたちの生育がすごい!

とにかくでかいの(笑)


さぁ、ここまで読んで
キモっ
気色悪いっ
とやめないでね(笑)

でも、直径3㎝はゆうに越してます。

私と虫

東京出身で
小さいころ、
虫と戯れることなく成長してきました。

そもそも虫がいるようなところに興味がなかったから
気持ち悪い生き物への遭遇を回避していたんだと思う。


弟の影響でカマキリとか
かっこいいなぁと思う虫は持てたし
自分が虫が嫌いという認識もないまま
育ってきたんです。

嫁いできて初めてこのBIGサイズカタツムリちゃんと
遭遇した時
そして
一人でこのでかいカタツムリと対峙した時
リアルに固まりました。

カタツムリちゃんとの遭遇

(ももこの心の声↓)
え、待って!
でかい。
でかすぎない!
ねぇ、目、そらしたんだけど
どうした、俺の眼球筋?
なぜ動かない?
これは、もう、金縛りなのか?
いや、ちがう、硬直だ・・・
怖い。怖すぎる。
ねぇ、この世で怖いものってお化けだと思ってたけど
違う、違う。
規格外のサイズのものに出会うと怖いんだ。
もう、鳥肌どころの騒ぎじゃない。
でもって、これからこの子と同じ空間で掃除するっての?

もう泣きたい。

家なら絶対にやめてる。
すぐさま家に戻って
旦那さんか
実家の母に電話して
この恐怖体験を話して
「そっか、そっか、それはももちゃん、こわかったね~」
って慰めてもらってる・・・

逃げたい、もう嫌。

嫌だ、怖い・・・




でも、でも、待って。
ここは寺。
そんなこと義理のお姉さん、義理のお母さんに言えない。

「あの~、大きなカタツムリが居て、
私ここの掃除できそうにありません・・・」

そんなこと言えるはずないじゃん。


でも怖い。

どうしたらいいの・・・

心臓バクバク

そこからの記憶がない。

どうやったんだろう?


初遭遇した瞬間までは覚えてるけど
それからの記憶がない。

でも掃除をやり切ったのは確か。

恐怖って繰り返し思い出さないいように
記憶を封印するんだろうね。(笑)  

あぁ、あの瞬間
であった時の記憶は鮮明に覚えてるのに。
どう作業したのか思い出せない(笑)

って、大げさな!
って思うでしょ!?

けど、私にとっては死活問題だったんです。
まぢで。

この一回だけではない。
時に迷い込んで家に出没するかもしれない。
これから先もこのBIGサイズちゃんと何度も
遭遇するかもしれない現実に
まだ見ぬ未来への恐怖・・・

でもね、結果として
年によっていない時期もあったの。
今思うと、気温や気候でいなかったりしたんだと思う。

カタツムリちゃんとの再会


でもって、3年前くらいかなぁ~
その日も、曇りがち。
坪ノ内を掃除していたとき
また、このBIGサイズカタツムリちゃんと
一緒に掃除をすることになりました。

やっぱり、慣れないよ、
あのサイズ感は。
ってかね、私リアルカタツムリはサイズに関わらず
苦手だということにも
気づきました。

絵本とリアルは全然違うの。
アジサイの上に乗ってるカタツムリ
は風情があって遠目は大丈夫。

けどね、家に活けたアジサイに
通常サイズのカタツムリ、
もしくは小さめサイズのカタツムリがいても

「ん???
あなた誰の許可を得て、私の家に入ってきたの?
だめよ、勝手にあがりこんでは。
まぁ、まだそこにいらして。
主人が戻ってきたら、お外に出ていただきますから。
それまでは、どうぞアジサイの上でお過ごしあそばせ。
下に降りてはいけませんよ。
絶対に!!!!!!!!!!!!

と、まぁ、仲良くはできないタイプの虫さんですね。


プチ情報 私と虫


今の私は、三重にきて
カメムシですら素手で持てるほどの強い女に変わったのです。
(➡生き物系の話はいろいろあるからまたブログで書くね!)

ってな、具合にカタツムリさんは苦手だということを
少しずつ認識していきました。

続 カタツムリちゃんとの再会

で、その3年前。
はい、今日もお邪魔しますよ!

と、おなじ空間にいることには心を許し
成長した私は熊手で彼らを移動させられたのです。
すぐ気づけるように
飛び石の上に移動してもらっていました。

さてさて、枯草や草引きをし
ゴミ袋に草を入れて作業を進めていると・・・






くしゃっ

あ!

再び
くしゃっ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ああああああぁあああああああああああああああああああああああああああああ



もう嫌。

そう、私は
ゴミ袋にいったりいたりするうちに
彼らを置いていたことを忘れて
こともあろうか、彼らを踏んでしまったのです。

いっしょの空間にいて
お互い距離感を保ちながら
平和に過ごしていた
この空気が一変。


なんてかわいそうなこをしたんだ・・・・

という絶望感。



そして次の瞬間私はこともあろうか
気持ち悪い


と思ってしまったのです。


自分が踏んで奪ってしまった命にたいして
クシャっという
音とともに

形あった殻が崩れたものを想像したら
ぞぞぞっぞっとしたのです。

生きていいたものが
亡骸になるときとでは
わきあがってくる感情がこんなにも違うものとかと
自分で、自分に
酷い人間だと感じました。

可哀そうだという気持ち

そもそも1匹でも可哀そうなのに、
驚いて、
あっと
声を出した次の一歩でまたもう一匹。

いっきに2匹も殺めてしまって
2匹の死骸に目をむけられませんでした。

「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」

結婚する前に、旦那さんが
蚊を殺したとき
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」
唱えていたことがありました。


はじめ
「おい!坊主ジョークやめろやぁ~」
って思ってたけど、
その気持ちがとてもよくわかります。

どの命も同じなのです。

自分が忌々しいと抱く印象、
自分にとって害があったとしても
1つの命であることは私と変わりありません。

ひどい人間


そして、生きて生命を持って動いているときと
死骸となって亡骸になった時との
違いはとてつもなく大きいです。

愛着もって育てていた金魚でさえ
亡骸になってしまってからは
怖くて触れることに対してすごく抵抗を感じます。

私が踏んで死なせてしまった
カタツムリ2匹
申し訳ない、申し訳ない。
なんてかわいそうなことを・・・
人間のエゴで掃除されて
移動させられて
不注意で命を終わらせてしまって・・・
坪ノ内の中で生きていた時、
外敵がいないら大きくなっていたのにも
関わらず
(私がそう解釈してるだけで種類が違うのかもしれないけどね)
本当にごめんなさい。

でもね、やっぱり片付けるとき
気持ち悪いっておもっちゃったの。

それに対しても、
私ってなんて
自分勝手でひどい人間なんだろう


って、自分が嫌いになりました。


その日はとってもショックで
ショックのあまり疲れ果てて
元気をなくしたことを覚えています。

残酷な気持ちで
口にだすこともできずに
私の心の中にだけしまわれていた
カタツムリちゃん。

またまたカタツムリちゃんとの再会

それから月日がたち
今年もまた湿気が多い日に掃除をすることに。

また、今年もいらっしゃいました。
そして、大量でした(笑)

今年はね、また私は成長していて
手袋をしていたらなんと持って移動させることが
できたのです。

前は、手に彼の重量を感じることすら
はばかられていたのに
なんか、今回はどのくらいの重さなんだろう?
って、ふとおもってね。


で、掃除をすすめ
飛び石に置くこともやめて
土の上。

今回はぜったいに踏まない


別の場所に気をとられて






クシャ



アlllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllっぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ


もう、もうもうももうもうもうもう!!!!!!!!!

もう、私本当に嫌


自分嫌い

あぁ、ごめんなさい。


もう、今回は涙がでました。

申し訳ない気持ち。

そして、やはりでてきた。

亡骸に対しての気持ち悪いかもという気持ち

でも、次の瞬間
その気持ち悪いという感情から今度は

命への比重を思いました。

だって、やっぱり蚊のことは殺してしまう。
蜂の巣があったらとってしまう。

南無阿弥陀仏を唱えて命を感じますが
カタツムリさんへの
この涙をだすまで
他の殺生(せっしょう)した生き物へ
気持ちが向いているか?

近々いただいた
肉魚へ涙を流し命をおもったか?

いただきます。
感謝はしてるけど
今この感じている命の尊さを全て均等に抱いているか?

誰が悪いはない

そして、私がいい場所へと考えた場所ですら
それが最善の場所ではなかったということ。

子育てでも、
自分がいい案だと思ったことは
時やケースによって
最善だとも限りません。

飛び石だろうが
土のうえだろうが
正解、不正解の物差しではないのです。

私の判断が悪かったと
自分を責めることも違うと感じました。

生きるって残酷

以前、神戸に旅行した時に
ジャイナ教の寺院があり
主人から教えてもらったことが思い返されました。
「ジャイナ教ではね、歩く前にほうきで掃除して歩くんだよ。
歩くときに自分の前にある虫を殺さないように!」

まさにそれ。
私も、自分の前にいたカタツムリを殺さないでいたかった。

凄くそう思いました。

でも、自分に害が及ぶものにたいしては敵視して
生きるために食べるものへはその意識がとてもさがる。
生きているってなんて残酷なんだろうか・・・

と思うと、生きていることがつらくなりました。

お釈迦様の教え

そして、次に
だから、
お釈迦様は食べないという修行をされたんだと思い出しました。

お釈迦様は
動物を口にしない上に、
野菜を育て食べたとしても
どの時に虫や、見えないほどの生き物も犠牲にして
いるかわからない。
だから何も食べない。
そういう修行もなされました。

食事をとらず瀕死の時に
スジャータという娘がミルクがゆをお釈迦様に食べさせて
お釈迦様は命を続けたのです。

だれも、何かの命を奪わずして生きることはできない。
それをなしに自分という生を続けることは難しい。

そうんなです。

この生死の中で私達は生きています。
そのことに気づいて、そのことを自覚しながら
生きていくしかないのです。

生きるということ


カタツムリさんの死骸を片付けながら
可哀そうだという気持ちだけで埋めつくされず
生死の繰り返しの中で私が生きているということに
気づきました。

南無阿弥陀仏

そして、
気づかせていただいていることに
感謝していくことなんだと感じました。

感情は動きます。
でも、その感情の先には
お釈迦様かのら教えで
生きるという最大の学び
を得ているのです。

有難うとは

だから、日々に感謝で
つらい経験でだとしても
有るのが難しい
有難い日々なのです。

カタツムリさんに教えていただき
心は平坦となり
再び手を合わせずにはいられませんでした。


みなさんは、いかがでしょうか?
感情の波の
そのさらに先を感じることはありますか?




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?