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正解のない世の中だからこその情報発信

みなさん、ご機嫌いかがですか。

いつもスキをいただき、ありがたい気持ちでいっぱいです。
その中でも、文章を読んでもらって、さらにコメントまで付けてくれる方もいらっしゃり、感謝のいたりです✨
みなさんと交流することこそが、noteの醍醐味だなとしみじみ思います😄

それでは、本題です。


a)悩みの原因

私はよく悩みます。人から考えすぎという指摘を受けるくらい悩みます。

悩みというものは、次から次に生じ、とにかく尽きることがないわけです。であるからこそ、わたしたちは永久に苦しみ続けるのです。

では、この悩みはどこから湧いて出てくるのでしょうか?

わからない?
その通り。わかりません。

原因はわかりませんが、ひとつだけヒントがあります。それは自由です。

b)自由であるということ

自由であるからこそ、次に何をすればいいのかわからないのです。わたしたちは、自由という名の目隠しをしながら生かされているのです。

たとえば、スマホのゲームを例に取りましょう。どんなゲームであれ、ミッションがあります。プレイヤーは、そのミッションに従ってクリアしていけばいいんです。

しかし、現実の社会ではそうはいきません。仕事中はある程度縛りがあるんですが、その仕事もイヤになれば辞めることもできますし、プライベートにいたっては誰からも指図されることはありません。家庭があれば、ある程度の束縛は存在しますけど、それでも自由なんです。

そもそもミッションという言葉はもともと神からの使命を意味します。聖書に書いてある通りに生きるのが正義だったわけです。

日本においてもそう、それぞれの時代にそれぞれの宿命がありました。その宿命に沿って人生をまっとうすればよかったのです。

しかし、神のいないこの時代、何の指針もなく自分の意思だけで生き続けなけばならないのです。

つまり、自由と責任は表裏一体の関係なんですね。
自由であるからこそ次の一手を考え続けなければならないのです。

c)自由という呪い

フランスの哲学者に、ジャン=ポール・サルトルという人がいます。今ではこの名を知る人も少なくなりましたが、半世紀前までは、大学生たちに大人気だったらしいです。戦後の日本人に多大な影響力をもたらした人です。

そんなサルトルですが、彼の言葉から今回のテーマである「悩みと自由」についてヒントをもらいましょう。

彼の著者「存在と無」において、人間は自由という刑に処せられている(自由であるべく呪われている)と論じました。

もし神が存在するならば、創造主である神によってあらかじめ本質が決定されているわけです。

これに対して、もし神がいないのならば、決定づけられた本質がないまま現在することになるというわけです。現実が本質に先立つわけです。これを実存主義といいます。

c)受動的生き方と能動的生き方

サルトルは続けます。存在には二つあり、受動的存在(≒即自)と能動的存在(≒対自)であると。

前者が、宿命を受け入れ粛々しゅくしゅくと生きている人々で、後者が自由意思で生きている人たちのことです。

言いかえれば、動物園で飼育されている動物と野性動物の違いでしょうか。

d)自分の意思で積極的に生きる

神なき時代には、人間みずから本質を創り出さないといけないのです。この本質の生み出す苦しみの中で、わたしたちは悩み続けるのです。

今自分を苦しめている状況があるならば、そこから脱出しなければならないのです。しかし、脱出した先にある新たな状況には、自分のなすべき宿命、つまり目標(答え)がないのです。だからこそ、常に正解を求める作業を要求されるのです。

この脱出作業のことをサルトルはアンガージュマンと呼びました。新しい状況に自らを投げ込むのです。参加すると訳す方もいます。

そう、参加するのです。そこに面白いものがあるなら積極的に参加しようではありませんか。

他人から与えられたゲームで暇つぶしするだけの人生なんてつまらないものです。みずからが積極的に行動するべきなんです。

e)情報社会で生き残るためには

現在は、言わずもがな情報社会です。アナログな考えの持ち主はやがて淘汰されるでしよう。

この情報社会に埋没しないためにも、みずからが情報を発信し、自分を主人公にした人生を創り上げるのです。

そこに正解(ミッション)はありません。あるのは自由意志のみです。

さあ、みんなで一緒に新しい時代を創り上げましょう。


ここまで読んでくださった方ありがとうございます。
とってもうれしいです😆😆😆





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