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ときどき日記(580)日本食堂五反田営業所

時刻表復刻版の旅(2)

『ソバという女の子がいた』


東海道・山陽新幹線は未だ「ひかり」と「こだま」しかなかった。駅も、今では名古屋到着の前に「三河安城」を定刻通りに通過していることをアナウンスしてくれるが、その駅もこの頃は未だない。

そして何より、あれほど乗務したかった食堂車が営業していたのだ。

自分が入社したのは「日本食堂」(いろいろ分割・吸収などを経て日本レストランエンタープライズを経て消滅してしまい、JRの完全子会社になったみたい)で、東海道・山陽新幹線のおよそ半数で食堂車をやっていた。残りの半分を「帝国ホテル」「都ホテル」「ビュフェとうきょう」が分担していた。
各列車の時刻の下に担当の会社名と何を、食堂車かビュフェかを略称とマークで記している。食堂車はナイフとフォークとスプーンの絵柄、ビュフェはティーカップの絵柄となっていて、会社名は「日本食堂」は「日食」、「帝国ホテル」は「帝国」、「都ホテル」は「都」、「ビュフェとうきょう」は「B・T」と言った具合だ。

「日本食堂」は大卒で入社すると1年目は首都圏の駅のレストランに勤務し、調理場もホールも事務所もやる。2年目は新幹線、3年目は在来線、4~5年目は地方の支部の事務所勤務になる予定だった。

自分は事務所の先輩からいじめられて、1日も早く1年目を終えて早く新幹線に乗りたいと切望していた。営業所からの帰りはあえて横須賀線に乗り、新幹線と並走するのを楽しみにして、並走して食堂車が見えるたびに「早く乗りたいなあ」とうらやましがったのを思い出す。

事務所でいじめられたものの、営業所のホールや調理場のみんなの顔は今でもよく覚えている。

「ソバ」そばかすのかわいい女の子。新潟から「助勤」(日食用語?)に来ていた子で、一度だけ公休が重なったときに地元の名所に連れて行った。うれしそうにしてくれていたのがなつかしい。彼女は3ヶ月か4ヶ月ぐらいで新潟の営業所に戻され、上越新幹線乗務になった。

「ハルチャン」、「ケーコチャン」、「ミッチャン」(ボンゴレスパゲティをポンコレと書いて「モリ」にからかわれていた。)、そしてその「モリ」は大学生のアルバイト。よくできたやつで、私よりも年下で、かつ、アルバイトでもあるのに社員である私はずいぶん頼りにした。
「ソバ」と「ハルチャン」が新潟に戻されてから、新たに「カオリチャン」ほか何人かが助勤に来て「カオリチャン」とはすぐに仲良くなったけど、事務所のいじめに耐えられず私が退社になって、ひどく残念がってくれたのがうれしかった。
調理場には「タケサン」。仕事が終わってから、駅のレストランだから終わりは夜9時半にもなり、そこから飲みに行けば終電はなくなるので、アパートに泊めてもらったことがある。いつも屋上のペントハウスで「キャンリー、キャンリー、キャンリー、エニーモー」とギターを弾きながら大きな声で歌っていた。いじめからかばってくれた先輩の筆頭だ。
「アオサン」いつもキュウリがちゃんと切れていなくてアコーディオン状になっているのを「モリ」が指さして「アオサンよ~」と言っていた。
そして「イカニャン」と「アンチャン」。「アンチャン」はクルマ好きで、夜遅くに片道自動車で1時間以上かかる道のりを送ってもらったり、公休があった日に男二人でドライブにも行った。秋田出身の兄ちゃんだ。ちょうどこの頃、秋田県沖地震があってひどく心配していたっけ。
「Sヤマサン」いちばんの二枚目で女子職員から絶大な人気を誇る。私の退職で送別会を開いてもらって、もちろんみんな終電がないから「Sヤマサン」のうちに泊めてもらった。

ちなみに、みんな泊まることにはなるだろうとは思っていても、支度はしてこず、寝るときは男子はパンツ1丁、女子はペチコートで男女同部屋で雑魚寝。あーあれは青春だったな。

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