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『N号棟』観た感想

なかなかにレビューがひどかった『N号棟』を観ました。

個人的にはそんなにひどいと思わなかったです。ただ、材料は揃えたのにレシピが途中でどっか行っちゃったので別のを拾ってきましたみたいな、絶妙に良さが殺されていて惜しいというか、そういう感想は抱きました。
(まぁ、だからレビューがひどいんだと思うんですけど)

以下は、ネタバレを含む個人の感想です。
私はいわゆる考察をするのが苦手なので、映画の結末、真相や裏設定について、何か自分の意見を述べるというものではありません。

それから、私はホラー映画をたくさん見てきたわけではありませんので、色々な作品と比較した高レベルな批評はできません。
これまで映画の感想を長文で書いたこともありません。最初は非公開で書くつもりが、意外と長くなってしまったのでせっかくだから公開しようという程度です。自分用に整理した感想文のようなものです。

また、「もっとこういう風だったら良かったのにな」というようなことも書いてしまっています。生意気で申し訳ないです。
「良かったのにな」というのは、映画・芸術作品として客観的に評価できるという意味ではなく、単に私の好みだったのになという意味です。一視聴者の自分勝手な願望だと思っていただければと思います。



良かった点

冒頭が良かったぞ

冒頭20分、素晴らしかったです。
Googleマップを拡大するところがピークでした。

別のコンテンツを持ち出すのは失礼かもしれませんが、私はツイキャス「禍話」の忌魅恐シリーズの映像化を見ているかのような感覚に陥りました(私は忌魅恐が大好きです)。
幽霊とも人怖ともカルトとも判断できない、ただ理解の及ばない気持ち悪さがそこにあるというあの感じ、たまらなかったです。

幽霊が出るという噂のある廃団地にやんちゃな大学生たちが行く。
こんなのオカルトホラーの王道じゃないですか。『コンジアム』じゃないですか。

でも団地の敷地に入ったら即、人間がいるんですよ。
しかも話の通じないヤバそうな奴じゃないんですよ(最初はそういう危ない人かもと思わせる仕掛けも良かったです)。
主人公の出まかせにコロッと騙されて、丁寧に案内してくれるお人好しなんですよ。

で、人がいないはずの幽霊団地にめちゃくちゃ人がたくさん住んでる。
しかも全員フレンドリー。
お年寄りばかりとかじゃない。今風の若い人が多い。スマホで動画とか撮ってる。

そんなんめちゃめちゃ怖いじゃないですか。
だって廃墟の幽霊団地のはずなんですよ。

正直、この辺で映画終わってほしかったです。30分くらいの短編ってことで。1人目の女性が転落したらへんで。
ここまで意味の分からない不気味さを作り上げたのだから、住民の事情とか怪奇現象とか死体損壊とか、全部蛇足に思えてしまったんです。解像度上げないで!怖くなくなるから!と。
作り手の立場になったら、引き算ってたぶん本当に難しいんでしょうね。


俳優さんが良かったぞ

私は邦画や国内ドラマを観るのがちょっと苦手なんですが、その理由の1つが「演技臭さ」です。
海外ドラマや洋画を観てるときは全く気になりません。英語であれフランス語であれ、リアルなネイティブスピーカーが普段どういう表現を使って、どういう話し方をするのか、私はよく知らないからです。
でも自分の母語である日本語作品を観ると、リアルな会話では登場しない言い回しが出てきたときにどうしても気になってしまいます。だから日本語で演技する俳優さんが下手と言いたいわけではなく、単純に自分の言語習熟度の問題です。

『N号棟』で良かったのは、大学生の演技がリアルすぎたという点です。
前述の通り私は国内ドラマや邦画をほとんど見ないので、日本の俳優さんをほとんど知らないのですが、特に史織と真帆を演じた俳優さんたち(萩原みのりさん、山谷花純さん)のセリフ回しや表現には感嘆しました。
私の学生時代の友達こんなだったわ、とついリア友の姿を重ねてしまいました。

やや話が逸れるのですが、ホラー作品って新鮮なうちに見ないと、本当にその怖さを享受できないんじゃないかと思うんです。
何が言いたいかと言うと、「どれだけその恐怖を自分のものとして感じられるかは、どれだけその作品の描写をリアルに感じられるかによる」ということです。

『着信アリ』が怖かったのは、公開当時、実際に自分の携帯電話(ガラケー)から電子音の着メロが鳴り響いていたからです。iPhoneのあの着信音が鳴り響く2020年代には、その恐怖を真にリアルに感じることはできません。
コロナ禍に何作か出たオンラインミーティングを舞台にしたホラー映画は、10年経ったらリアリティーに欠けるものになっているはずです。

リアルタイムで観る作品ほど「怖く」感じられると私は思っています。
(と思っていたのですが、最近あえて懐かしさを喚起する作品も怖いと思いようになりました。90~00年代風のビデオを意識した「フェイクドキュメンタリーQ」や、梨さんの2000年代のインターネットを題材にしたホラー作品はめちゃくちゃ怖くて私は大ファンです)

だからこそ、2020年代のリアル女子大生をまんま写したような彼女たちの演技は、ホラー作品としてのこの映画の魅力に大きく貢献したと思います。

それからホラー映画には「観客がイラっとする陽キャ」が不可欠ですが、そういうイキり大学生の解像度の高さも見事でしたね。
これは俳優さんだけじゃなくて脚本家さんの力でもあるのだろうなと思いました。
絶妙に不快で、でも決して「そんな奴おらんやろ」とはならないレベルの、無礼かつ軽薄な若者の再現が完璧でした。
団地に入って親切な管理人さんに案内してもらってるときのヒリヒリ感、最高でしたね。自分の友達にあんなんされたらストレスで吐きそうです。


ここまで述べてきたように、この映画には素晴らしい点がたくさんありました。
ワクワクするシーンをたくさん見せていただいて感謝の限りです。

だからこそ、ここもっとこうしてほしかったな~!というのが(既に書いたものもありますが)色々と出てきてしまいました。特に結末の提示の仕方と、映画『ミッドサマー』との差別化についてです。
以下ではそれらについて述べていきたいと思います。


「曖昧な結末」を作るのは難しい

私は結末を言明しないタイプの作品が大好きです。
こういうの嫌いな人は大嫌いだと思うんですが、私にとっては大好物です。
しかし難しいのは、結末を曖昧にすりゃ良いってもんじゃないという点です。

『N号棟』もまさしくそんな「曖昧な結末」を提示した作品でした。
結局のところ史織や加奈子、団地の住民たちは死んだのか、助かったのか、あの出来事は現実だったのか、明確にはされていません。

ただこの映画のプロットに照らすならば、私はその辺りは曖昧でも良いんじゃないかと思っています。
なぜなら、加奈子の思想(肉体の死後も魂は生き続ける)に従うならば、彼ら(の肉体)が死んだかどうかは些末な問題だからです。

問題なのは、この「曖昧な結末」に至るまでの道筋です。
これは完全に個人的な意見ですが、「曖昧な結末」を採用しても許されるパターンは割と決まっていると私は思っています。

ひと口に「曖昧な結末」といっても色々あると思いますから、ここでは大きく2つに分けておきたいと思います。

➀ 起承転結の「結」の直前で唐突に終わるタイプ
② 本当(現実)と嘘(夢)の境目がわからないタイプ

ものすごくざっくりした分け方ですが、まず➀の例だと、映画では『ミスト』なんかが挙げられると思います。
後味悪い系とも言うかもしれませんが、「え、それでその後どうしたの!?」ってなるやつですね。
余談ですが私はこのタイプが大好きです。「リドル・ストーリー」と呼ばれる結論ブツ切り系の物語ジャンルがあるのですが、その古典的作品であるストックトンの『女か虎か』という短編がまさしくこれにあたります。私のお気に入りです。

②のタイプは、幻想的な終わり方ですね。夢と現実を行き来したりする作品に多い印象があります。映画でいうと『インセプション』なんかが思い当たります。
こういう終わり方をする作品の特徴としては、「どっちが現実でどっちが幻想かわからない」という状況が物語のほぼ全編を通して示されていることが挙げられます。

私見では、「曖昧な結末」を目指して失敗する映画の多くが②を採用しています。
なぜ失敗するかというと、「夢か現実かよくわからない状況になった根拠」が上手く示されていないからです。

②の成功例として『インセプション』を見てみると、この映画は物語の基本設計自体が「夢の世界に入ってアレコレする」というものになっています。ストーリーの中でも、夢と現実を混同しないようにと注意喚起するセリフが出てきます。だからこそ「主人公が迎えた結末が夢か現実かわからない」という曖昧さに説得力があるのです。

長くなりましたが、以上をふまえて『N号棟』に戻ってみたいと思います。
『N号棟』が採用しているのは②のタイプです。団地で起きたことは現実なのか、それとも史織の妄想だったのか。史織は本当に友人たちや加奈子や自分を刺したのか。意図的にボカされています。

しかしながらこの映画の中に、観客が「団地で起きたことは史織の妄想かもしれない」と疑える材料は、少なくともラストシーンに入るまではありません。
たしかに史織が処方された薬(睡眠薬?)を飲んでいるシーンはありますが、乱用している様子はありませんし、それによって幻覚が引き起こされているという描写もありません。
それどころか、団地に住んでいる人々やそこで起きた出来事はやはり現実だったと思わせる仕掛けのほうが目立ちます。啓太がずっと回している(回させられている)ビデオカメラや、教授の部屋に置いてあった意味深な落書きなどです。

こうしたことから、『N号棟』の提示した「曖昧な結末」は、しっかりと現実に根差した物語の奥から急に飛んできた変化球みたいな唐突さを感じてしまうのだと思います。
本作の「曖昧な結末」に納得できない人が(私も含めて)多いのは、この辺りが理由なんじゃないかと個人的には推測しています。


『ミッドサマー』との差別化

私は『N号棟』をほぼ事前知識ゼロで観ました。なんか流行ってるらしいというのと、アマプラで観られるという情報だけです。

そんな状態でも、この映画がアリ・アスター監督の『ミッドサマー』を意識して作られていることにはすぐに気付きました。
そのくらいあからさまでした。ダンスのシーンとか本当に露骨ですよね。
後から調べて「和製ミッドサマー」と呼ばれていることを知りました。

ここでは『N号棟』がどういう作品だったら「和製ミッドサマー」以上のものになり得たのか、ということについて書いていきたいと思います。
初めに書いた通りこれらはあくまで私の願望ですし、作品の評価として適切ではないかもしれません。
また、以下は『ミッドサマー』のネタバレを含みますので、未視聴の方はご注意ください。


『ミッドサマー』は言うまでもなく、若い学生たちがスウェーデンのある小さなコミューンでの祭に参加し、しばらく生活を共にするというストーリーです。
コミューンでは、外の世界の常識から考えると明らかに異常なことが起きています。
主人公たちは最初それに強い拒否感を示します。彼らの生活や文化を否定し、侮辱する者も現れます。
最終的にほとんどの学生たちが命を落としますが、それに対して主人公のダニーだけはコミューンの人々と心を通わせ、新たな「メイ・クイーン」として彼らと共に生きていくことが示唆されます。恋人が焼かれている小屋を眺めながらダニーが幸せそうな微笑みを浮かべるラストは印象的です。

『N号棟』では、最終的に3人の学生全員が団地の共同体に取り込まれる、という結末をたどります。しかし、彼らは一度に取り込まれていったわけではありません。
最初は友人の真帆、次に元彼の啓太。最後まで抗ったのが主役の史織です。

私は『N号棟』を観ている間、最初は真帆が『ミッドサマー』でいうところのダニーなのかと思っていました。
たしかに精神に不安定な要素を抱えているという点では、史織のほうがダニーに近いかもしれません。しかし史織は大学生ライフを満喫しており(もちろん、内に抱える恐怖症には苛まれていますが)、周囲からも「自己中」と評されるほど自由に生きているように見えます。
一方で、真帆には精神上の不調は(少なくとも表面上)確認できないものの、いつまでも元カノと縁を切らないクソ彼氏と、それに甘え続ける史織という存在に悩まされています。
不誠実な恋人という点では、ダニーと真帆のほうがより近しいキャラクターであるように思えます。

真帆が啓太に啖呵を切るシーンはとても印象的でした。俳優さんの自然な演技も相俟って、私には等身大の「男性に頼らず生きていこうとする現代の若い女性」に見えたからです(変にフィクション的な女性言葉を使わないところもグッド)。絶対こういう女の子その辺にいるよ。

『ミッドサマー』では、ダニーもまた恋人のクリスチャンに愛想を尽かし、彼よりもコミューンを選ぶことで彼を見殺しにします。
私は真帆が啓太を突き放すのを見て、まさしく彼女こそダニーの役割を担うのだと思ったのです。いつまでもダメな彼氏を見限って、団地の住民たちと一緒に彼に地獄を見せるのだと。

しかし、啓太は早々に「こっち側」に来てしまいました。

いやお前なに安住の地に来とんねんと。

ゾンビ映画で最も気楽な立場って、一番最初に襲われる奴だと思うんですよ。
ゾンビになってしまえばもはや自分が脅かされることはないし、友達や恋人が襲われるところを見て恐怖しなくてもいい。
『N号棟』の場合で言えば、団地住民の仲間になっちゃうのが一番安全なんですよね。

『N号棟』を観ながら私が考えていたのは、真帆がダニー、啓太がクリスチャンで、史織が『ミッドサマー』にはいなかった、新しい立場のキャラクターなのではないか、ということでした。
しかし予想は外れました。
啓太は安全地帯に逃げ込んできているし、結局、主役の史織もダニーになってしまったからです。

『N号棟』のラストでは、史織も団地住民(というより加奈子)に同調してしまいます。
なんだかそれが予定調和というか、『ミッドサマー』のプロットから逃れられていないというか。
『ミッドサマー』と同じような結末にするのなら、別の作品として撮る意義はあまりないんじゃないかと正直思ってしまいました。
これが、この映画が単なる「和製ミッドサマー」に落ち着いてしまった原因なのではないかと思います。

史織が「死恐怖症」を抱えるキャラクターならば、「死は終わりではない、死は恐怖ではない、だから死んでも大丈夫」という思想を掲げる団地住民に懐柔される結末は容易に想像できます。
でもその通りになるのは、あまりにも予定調和です。

さらにそれは「だから自分で命を絶ってもいい」という極端なメッセージを観客に伝えるものでもあります。
その是非については色々な意見をお持ちの方がいると思いますが、少なくとも私はそんな悲観的で短絡的な結論に落ち着く作品は見たくありません。単純に暗いからです。

むしろ私は、『ミッドサマー』には存在しなかった、コミューンから逃げ出して元いた世界に生還するキャラクターをこの映画で観たかったな、と思ってしまいました。
史織は最後までよく戦っていました。並の女子大生とは思えない豪胆さとフィジカルの強さで。ちょっと長くない?と思ってしまうくらいの苛酷な激闘をかいくぐっていました。

だからこそ、彼女が生還する(つまり、団地住民の思想に染まらず)ことを望んでいましたし、団地での戦い(?)を通じて彼女が自身の中の恐怖と向き合うことができるようになるのではと思ったのです。
加奈子の「正しく怖がりなさい」というセリフは、その伏線ではないかと思っていたのです。

しかし長時間に及ぶ攻防にもかかわらず、史織は加奈子に説得されてしまいます。史織が他の2人と同じ道を辿ったのに伴って、真帆と啓太も固有の役割を与えられたというより、単に「ちょっとだけ早く取り込まれた人」として史織を招き入れるだけの立場になってしまいました。

映画冒頭から、彼らの三角関係の不穏さはビシビシと伝わってきました。大学生あるある!と思わせるギスギス感はとてもリアルでした。
史織と真帆、真帆と啓太、啓太と史織。それぞれの間に走る絶妙な緊張感が巧みに表現されていただけに、その人間関係が活かされることなく、結局3人が同じ運命を辿るだけになってしまう、というプロットは惜しく感じました。


ここからは蛇足ですが、あともう1つ、個人的に史織に生還してほしかったと思った理由があります。
それは史織が「自己中」な、いけ好かない女子大生だということです。
ホラー映画の定石として、いけ好かない陽キャは生き残れません。あと、性行為をしたキャラも生き残れません。
最後に生き残るためには「良い子ちゃん」でなければならないのです。

これは私が先日『X(エックス)』というホラー映画のとある解説ブログを読んで、明らかにそれに感化されて出てきた感想なのですが
(以下、『X』の結末に触れますのでご注意ください)

『X』は上述したホラー映画のお約束をぶっ壊したという点で面白い作品でした。
主人公のマキシーンは、ドラッグもやるしセクシー映画にも出る、いわゆるBad girlなのですが、最後までバッチリ生き残ります(作中にはホラー映画のそうしたお約束を彷彿とさせるセリフが出てくるので、この展開は意図的なものと思われます)。
『N号棟』でも史織は友人の恋を邪魔し、授業で居眠りしたうえ先生に反抗し、立入禁止の団地に無断侵入するBad girlです。

そんな全然「良い子ちゃん」じゃない史織が生き残ったらクールじゃないですか。それだけで☆5付けてたかもしれません。
世間が求める「良い子ちゃん」とは程遠い「自己中」に生きる史織が、自分を保ったまま生き延びてくれたら良かったのにな、と私は思ってしまいました。


おまけ:よくわからなかったところとか

以下は、疑問に思ったけど単純によくわからなかった点です。もしかしたら考察の手がかりになるのかもしれないけど私は考えるのが苦手なので投げっぱなしにしておきます。

ビデオ撮ってたのは何だったのか

私が映画を観ながらずっと疑問に思っていたのは、史織の行動原理です。
彼女は特別オカルト好きとか、正義感が強いというようなキャラクターではなさそうですが、やたらと団地の秘密に固執しますよね。

何度も「お、おいもう帰ろうぜ……」と思ったシーンがありましたし、実際何度も啓太にそう言われていますが、毎回史織が言うのはただ一言「カメラ回して」です。
映画撮影は啓太と真帆の卒業制作のはずでしたし、映像を撮ることに史織が執着する理由がよくわかりませんでした。
それに、しばしば撮影を渋る啓太にカメラを回させるよりも、現代っ子なんだから自分のスマホで撮れば良いのでは?とツッコみたくなったのも事実です。

意地悪な捉え方をすると、単に今また流行っているファウンドフッテージ的な要素を入れたかった(そしてそれが上手くいかなかった)のかもしれません。
啓太がわざわざレトロなビデオカメラを使っているのも、最近流行っているローテクな映像を使ったホラーの影響に思えます。

この物語は史織がなかなか団地から逃げないことによって進んでいくので、逃げない動機が強くないとちょっと説得力がなくなってしまいますね。

ただ、「ビデオを撮る」ということに関しては、1つ気になったことがありました。
団地の住民の1人が、同じようにスマホで動画を撮っていたのです。
最初に入居希望者として案内されるときに、屋上で出会った茶髪の男性です。

最初は何かの伏線なのかなぁと思っていましたが、結局物語には絡まなかったみたいで少し残念でした。
ただこれは私の考察力がないだけで、よく考えてみれば史織(啓太)と住民男性の「ビデオを撮る」という共通した行為に隠された意味があるのかもしれません。
その辺はどなたかにお任せしたいと思います。


あとこれは完全に余談ですが、『着信アリ』の大学と同じロケ地が使われているシーンがありましたよね。
『着信アリ』では男子学生がエレベーターから落ちるシーン、『N号棟』では史織が啓太を家に誘うシーンです。
ちゃんと見比べていないので、勘違いでしたらご容赦ください。

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