日記3/19 コピペのボルヘス【伝奇集】、AIだけの【ドン・キホーテ】
…と、別の日の文言を、そっくりそのまま今日の日記に流用する。
一見してナンセンス。
しかし屁理屈をつけるなら、人間は割と同じ生活を繰り返している。
朝にパンを食べ、同じ時間に外に出る。
同じ道を歩き、同じ職場に行き、朝の業務を定型的にこなす。
前に行った定食屋で同じメニューを頼み、自販機でいつものジュースを買う。
正直に日記と書いた結果
いつかの日と瓜二つな内容であったもおかしくはない。
違いがあるとすれば、
テレビで見たニュースの内容と、カバンの中の本の種類だけ。
変化のない生活は、安定した日々の裏返し。
悪いこともなく、だから日記はコピペな日々が素晴らしくなる。
そんな屁理屈で文章を稼いだけど
実際、同じ本を2回、3回と読み返して、同じ感想になることはある。
ボルヘスの伝奇集の中の短編が一つ
「『ドン・キホーテ』の著者 ピエール・メナール」は
ピエール・メルナールという男が、ミゲル・デ・セルバンデスによる名作「ドン・キホーテ」に憧れて、自身がその続編を書こうとする様子を批評していく話だ。
知らない人にドン・キホーテについてここで語るには
論文2,3本くらいの分量をもってしても足りないから
スペインの騎士の話で、世界文学の金字塔、いや風車、
現代も舞台から映画まで絶え間なく作られている物語とでも思ってくれればいい。
20世紀(作中でいう現代)の作家メナールは、ドン・キホーテの話を書くに当たり、二次創作などではなく、原作そのものの続編を書こうとした。
物語の舞台である17世紀スペインのことを徹底的に調べ上げ、当時のセルバンデスの考えや思考を完全にトレスしてなりきろうとした。
一人の人間が時代も生まれも違う人間の文章を完全再現し、更に新作を書こうとするのは難しい。
それで方言や行間すら完璧に「セルバンデスらしい」ものにしようと分析していく様は、作中の文章だとすごい奇妙なこととして書かれる。
しかし一方で、2024年の私たちは、「文章AIを人力でやってるみたいなものか」とも解釈できる。
ここで「一方」とあるのは
語り手が、同じ文章でありながら、前者はただの長々しい形容句、17世紀までの騎士物語にあるような賞賛のための前口上のようなものとしているのに対して、
後者は、現代人の辿り着いた歴史に対する新たな見方であると批評している点だ。
同じ言葉でも、言う人や時代が違えば意味も批評も変わるという言葉遊びではある。
AIが、学習により出力した文章が文豪と同じであった場合
文豪は名文であると門人に考証されるし
AIのほうはネットで取り上げられて、しかし人の心や意図が機械にない以上、言葉遊びとして流されるだけだ。
まさにメナールとは真逆の評価になる。
AIが17世紀に存在して、ドン・キホーテを書いたとしても、同じ評価になっただろう。
我々が文章を判断するとき、例え文章そのものが素晴らしいとする読み方ができたとしても、その時代や書き手の背景からは逃れられないのだ。
そんなわけで、
私は今日も日記をコピペる。
そこに崇高な意図があり、たしかに先日の日記と文章こそ同じだが
ここに込められた心は唯一無二の、その日限りのものだと言い訳しながら。
そうして何とか日記を継続した気になりながら
明日はAIに日記を書いてもらおうかとも思考する。
上記の文章の結論を全てひっくり返すようではあるけれど。
私が書きたいのはただの日記ではない。
求めるのはナンセンスな日記である。
つまり意図があるようで、意味のない日記なのだから。
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