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【毎日掌編小説】マラソン

私の働く会社はITサービス全般を取り扱う、東京に本社を置くどこにでもある中堅企業である。年功序列に従っていつの間にか課長になっていた私は、部下の郷田、白鳥、大橋、界を従えて今日も営業活動に従事していた。

と言ってもあまり営業ノルマが厳しくない8月は、そんなに根を詰めて仕事をするわけでもない。束の間の平穏を噛み締めつつタバコ休憩を挟んでいると、ふと同席した郷田と健康の話をすることになった。

「ほんと、アラフォーになって体力が落ちたとつくづく実感するよ」
「いやいや、課長はまだまだお若いですよ。体だってガッチリしてますし、この前の社内フットサルだって大活躍だったじゃないですか」
「いやー、以前ほど全然動けてないよ、それに、油断するとすぐ下っ腹が出てほんとまいっちゃうよ。ただ運動するだけだとつまらないし……郷田君、何か良い方法はないかな?」
「うーん。じゃあ、マラソンとかはどうですか?有酸素運動なので、内臓脂肪にも効きますよ!」
「おー、流石郷田君だ。でも、折角やるなら何か目標を決めたいな」
「じゃあ、課のみんなで一緒に3か月後のマラソン大会に出場しましょうよ!」
「いいね。でも、参加の強制はダメだぞ」

そう釘を刺したは良いが、この男は人の話をあまり聞かないのが玉に傷である。やはりというか、変な圧力をかけて民意を誘導したようで、結局5人全員でマラソン大会に参加することになった。


さて、東京でマラソンの練習と言えば皇居ランである。私はフレックスタイム制を利用して早々に仕事を上がり、日々鍛錬に励むのであった。

そんなある日のこと、偶然にも大橋を皇居ランで見かけた。

大橋はふくよかな体格と丸っこい顔を活かした、人当たりの良い営業が評判の男である。運動神経は悪いようで、職場でも全く運動の話を聞くことも無かった。
そんな大橋が息も絶え絶えになりながらドッスンドッスンと走る姿を見て、私はたいそう驚いた。

声をかけようという考えも一瞬頭を過ったが、なんだか無理に運動させてしまったことに負い目を感じた私は、無言でその背中を追い抜いたのであった。

その次の日、課の中ではマラソン大会に向けた練習が話題になっていた。
耳と傾けると白鳥の今日は何キロ走っただかの自慢話ばかり聞こえてきており、大橋は「ちゃんと練習しないと当日キツイぞ」と言われっぱなしで話に参加することは無かった。


3ヶ月後、ついにマラソン大会の日がやってきた。当日会場に集まったのは界を除く4人である。

界は適当な男なので、何かしらの理由を付けてサボったに違いない。そう思いながら部下を眺めていると、なんだか大橋の体が随分シャッキリと締まっているように見える。
もちろんまだまだ肥満体型ではあるのだが、脚の筋肉が明らかに今日に向けて鍛えてきたことを物語っていた。あれから皇居ランで一度も会わなかったのでてっきりキツくて辞めたのかと思っていたが、どうやら時間がずれていただけらしい。

そんなこんなで雑談していると、ついに少し前の走者が走り始めた。
その後暫くは4人で軽く会話を交わしつつ走っていたが、10キロを超えた辺りで白鳥と郷田がペースを上げ始め、あっという間に見えなくなってしまった。

残されたのは私と大橋である。私は気まずさを感じつつ、大橋に話しかけた。

「参加してくれてありがとう。無理言って走らせてすまん」
「いえいえ、自分もずっと体を動かした方が良いって思ってたんで、良い機会を頂けて感謝しかないですよ」
「練習、頑張ってたみたいだな」
「課長には皇居ランで一回会いましたよね?追い抜かれた時の背中を見て、こんな人になりたいなって思ったんです。お陰で、今日まで頑張れました」

そう言う意図では無かったんだが……まぁ、本人が良いなら良いだろう。そう思った私は、余計なことは言わないことにした。

結局、何回か休憩を挟みつつも、私は大橋と共に42キロを走り切った。ゴール前には郷田だけが立っており、白鳥は何処にも居なかった。
聞けば、半分を過ぎた地点でヘロヘロになり、途中棄権して先にホテルに戻ったとのことであった。なんとも白鳥らしい最後である。


その日の夜は、会場近くの居酒屋でお互いの健闘を称え合った。

4時間を切ってホクホク顔の郷田、そんな郷田のペースに途中までついていった白鳥、地道に走り続けて完走した大橋が笑い合っている様子を見て、私は課のみんなでマラソン大会に参加することにして良かったと真に思うのであった。


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