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書く習慣1ヶ月チャレンジ Day8 最近怒ったこと

私はあまり怒らない。普段生活していて、もう何年も怒っていない気がする。

でも、それは怒らないようにしているからではない。
むしろ、怒ることは悪いことではないと考えている。

三木清は、『人生論ノート』”怒について”の章で、
怒りの倫理的意味が多くの人に忘れられていることを嘆いている。
また、怒りと憎しみが似ているけど違うことも指摘している。

怒りは突発的で、憎しみは習慣的である。
怒りは憎しみの直接的原因になることができるが、憎しみは付属的にしか怒りの原因となることができない、という。

例えば、私たちが怒るときは何か出来事があって、それが理由で怒る。そして、一回怒ったら、それで終わる。
でも、憎しみは違う。
何か出来事があって、それを直接憎しむということはなく、「怒ったこと」を習慣的に繰り返した結果、それが憎しみになる。だから、憎しみの期間が長ければ長くなるほど、憎しみそのものは強くなる。
怒りは一瞬だが、さらりとしている。しかし、それが長く続けば憎しみになる。憎しみは、もはや怒ることが主な原因であり、元の出来事が原因ではない。これはどうしようもないことだ。憎しみは避けるべきだ。

三木清によると、特に人間的な怒りというのは、名誉心からの怒りである。自分の名誉が傷ついたことによる怒りは、個人の意識と不可分である。つまり、怒りの倫理的意味とは、自分が個人であること、独立の人格であること強く示すものである、という。

なるほど、人は、自分は個性的な存在であることを強く示すから怒るのか。

その上で、今日怒りというものが曖昧になったのは、この社会において名誉心と虚栄心との区別が曖昧になったという事情に相応している。それはまたこの社会において無性格な人間が多くなったという事実を反映している、とも述べている。

つまり、名誉心という自分自身に対して感じる心を持って生きる人より、虚栄心という自分自身ではない仮装の心を中心に生きる人が増えたということを言っているのではないだろうか。
名誉心を傷つけられると怒りを覚えるが、自分ではない虚栄の心が傷つけられても痛くない。むしろ、傷つけられたくなくてあえて虚栄の心でバリアを張っている人も多いだろう。怒りが美徳ではないとされる日本の因習がそうさせているのかもしれない。

NHKのBSプレミアム「ヒューマニエンス」の”怒り”の特集の回で観たのだが、多くの人が共通して怒る状況はこの9つだという。

怒りを感じやすい9つの状況、この英単語の頭文字を並べるとLIFE MORTS(=人生の致命傷)となる。
「生命と身体」、「名誉」、「家族」、「自分が属する社会集団」、「なわばり」、「友人」、「資源」、「社会的正義」が脅かされたときに、ほとんどの人は怒りを感じる。これはそのまま放置しておくと、これらがまさに自分の人生の致命傷(LIFE MORTS)になり得る状況だからである。つまり、怒りとは自分や周りの者が脅威を与えられたときに対抗しようとする反応なのだ。

名誉心を傷つけられる、は「侮辱されたとき」と同じとみていいだろう。この状況で怒ることは、言い換えれば「自分を精神的に守ること」と言えるだろう。
それ以外の怒りも、ほとんどが自分そのものや自分の大切なものを守るときに発生するというのなら、怒りとは「自分を守ること」と同じではないだろうか。

自分を守ることは、自分を大事にすることである。怒りが自分を大事にすることならば、怒ることを止める理由はないだろう。

怒れるとは、自身を持っていることであり、自信を持っていい。怒れなくなるとは、自分を含め、誰のことも守ることができないということだろう。

怒りを感じること、それを表すことは、決意である。
怒ることで自分の大切なものを再認識できるのなら、それを避けるべきではない。

怒るときは怒る。怒らないことが美徳ではない。これは忘れないようにしよう。


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