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5.居酒屋とまりぎ

「幾星霜の人々と共に・白駒池居宅介護支援事業所物語」

第1話「彼方の記憶」

【今回の登場人物】
  立山麻里 34歳 白駒池居宅 管理者
  滝谷七海 34歳 白駒地区地域包括支援センター管理者 社会福祉士
  甲斐修代 36歳 白駒池特別養護老人ホーム ケアマネジャー
  正木正雄 50歳代 「居酒屋とまりぎ」の店主

5.居酒屋とまりぎ

 「白駒池居宅介護支援事業所」、通称「白駒池居宅」は、渋谷の中心街から少し離れた奥渋白駒池地区にあった。
 昔からある閑静な住宅街やマンション、或いは昭和な建物が入り交ざる地域にあり、今は埋め立てられなくなっている白駒池が、その地域の名前になっていた。
 近辺には「白駒池特別養護老人ホーム」や、「白駒地区地域包括支援センター」がある。

 「白駒池居宅支援事業所」の管理者立山麻里は、行きつけの居酒屋「とまりぎ」の暖簾をくぐった。
 居酒屋「とまりぎ」は、喧噪甚だしい渋谷の中心街から少し坂を上った奥渋地域のはずれにあった。そのため比較的落ち着いた雰囲気の小さな居酒屋で、常連客が多かった。
 麻里は、カウンター席に座っている二人をすぐに見つけた。
 「遅くなっちゃった。待たせてごめんね。」
 「だいじょうぶ~ この仕事、電車の時刻表のようにはいきませ~ん」
 カウンター席に座るおかっぱ頭の四角い顔の女性、甲斐修代が明るく声を掛けた。
 「いらっしゃい三人揃ったね。」
 カウンター内から無精ひげを生やしたマスターの正木正雄が顔を出した。
 立山麻里に声を掛けた甲斐修代は、白駒池特別養護老人ホームのケアマネジャーで、この施設で働いて8年目になっていた。
 明るい性格で、言いたいことはどんどん口に出すタイプだ。
 もう一人、甲斐修代と一緒に並んで座っていたのが、白駒地区地域包括支援センター管理者であり社会福祉士の滝谷七海だった。
 立山麻里と同年代の滝谷七海は、甲斐修代とは反対に物静かで、冷静沈着な人物という雰囲気の女性だった。
 三人は、いくつかのケアマネジャーの研修会で一緒になり、それぞれに近隣の事業所であったことで、いつのまにか食事友達になり、そして修代がお気に入りの居酒屋「とまりぎ」に、時々集うようになったのだった。
 物事をはっきり言うが情熱的な甲斐修代、冷静に見えるがゆえプレッシャーを感じている滝谷七海、そして、そつなく仕事をこなしているように見えて自分に自信が持てない立山麻里。
 合わないようで妙に話が合う三人だった。

 「ねぇねぇ、聞いて。うちのケアワーカーったらほんとにわかってないんだから。」
 麻里が座るなり、修代がしゃべり始めた。
 その時、三人の前に、マスターの正木が顔を出した。
 正木は50歳代、無精ひげの中のつぶらな瞳で見つめてくる笑顔が似合う男だった。
 「おっと、そこでストップや! 」
 三人は怪訝そうに正木マスターを見つめた。
 「君たちの話は個人情報いっぱいやろ。ましてアルコール飲んだら、リミッターが効かなくなるやん。」
 正木は少し大阪弁が混ざった口調でイントネーションが独特だった。
 「親父さん、そんな固いこと言わないで。介護の仕事はお酒でも飲んで愚痴を一杯吐き出さないとストレスが溜まって仕方ないんだからさ~」
 修代はすねた顔で正木を見返した。
 「いやいや、愚痴や文句を言うたらあかんと言ってるんとちゃうねん。みんなの仕事は個人情報にかかる仕事やから注意せんとあかんよってことだわさ。」
 正木は明るく答えた。
 「じゃーどうしたらいいのさ~ 」
 修代は正木を睨んだ。
 「そう言うと思ったから、あんたたちのために、というわけでもないけど、実は準個室を増築しといたんや。」
 三人は今まで壁しかなかったところに入口があり、山小屋の暖簾がかかっている場所を見つめた。
 「親父さんいつのまに!? 」
 修代の言葉に、正木は二っと笑った。
 「奥座敷を作ったんや。4人席と2人席があるんやけど、そこやったら少々のこと喋っても外には聞こえへんから、なんぼ喋ってもええで。」
 「やった! 親父さんさすが! だから私は親父さんのことが大好きなんだな~ 」
 と言いながら、修代はテーブルのお箸やおしぼりやビールを持って立ち上がった。
 「但し! 」
 正木が厳しめの声で立ち上がろうとした三人に声を掛けた。
 「いくら仲の良い三人であってもやな、個人情報にはくれぐれも気を付けてしゃべるんやで。守秘義務守らなあかんで。」
 立ち上がった修代が親指を立てて返答した。
「大丈夫。私らは個別のケースの話はしないの。ただ介護保険制度の不具合についてと、職員の質の向上について、議論するだけ!」
 修代は反論を許さない言葉を返して、にたっと笑った。
 「さすがやな。因みに二人席には先客がいるけど、彼らのことは気にせんでええ。誰かに喋ることはせえへん男たちやから。石の地蔵が座っているとでも思ってくれたらええよ。」
 修代は既に奥座敷に向かっていたが、麻里と七海は顔を見合わせ、
 「石の地蔵みたいな人? 」と、正木に返した。
 「いや、そんな風体ではないけど、地蔵様のような存在と思ってくれたらええわ。気にせずにしゃべってな。」
 麻里と七海はほくそ笑むと、修代の後に続いて個室の暖簾をくぐった。

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